灰吹《はいふき》に薄い唾《つば》した。
此の世盛《よざか》りの、思ひ上れる、美しき女優は、樹の緑|蝉《せみ》の声も滴《したた》るが如き影に、框《かまち》も自然《おのず》から浮いて高い処《ところ》に、色も濡々《ぬれぬれ》と水際立《みずぎわだ》つ、紫陽花《あじさい》の花の姿を撓《たわ》わに置きつゝ、翡翠《ひすい》、紅玉《ルビイ》、真珠など、指環を三《み》つ四《よ》つ嵌《は》めた白い指をツト挙げて、鬢《びん》の後毛《おくれげ》を掻いた次手《ついで》に、白金《プラチナ》の高彫《たかぼり》の、翼に金剛石《ダイヤ》を鏤《ちりば》め、目には血膸玉《スルウドストン》、嘴《くちばし》と爪に緑宝玉《エメラルド》の象嵌《ぞうがん》した、白く輝く鸚鵡《おうむ》の釵《かんざし》――何某《なにがし》の伯爵が心を籠《こ》めた贈《おくり》ものとて、人は知つて、(伯爵)と称《とな》ふる其の釵を抜いて、脚《あし》を返して、喫掛《のみか》けた火皿《ひざら》の脂《やに》を浚《さら》つた。……伊達《だて》の煙管《きせる》は、煙を吸ふより、手すさみの科《しぐさ》が多い慣習《ならい》である。
三味線|背負《しょ》つた乞食坊主が、引掻《ひっか》くやうにもぞ/\と肩を揺《ゆす》ると、一眼《いちがん》ひたと盲《し》ひた、眇《めっかち》の青ぶくれの面《かお》を向けて、恁《こ》う、引傾《ひっかたが》つて、熟《じっ》と紫玉の其の状《さま》を視《み》ると、肩を抽《ぬ》いた杖《つえ》の尖《さき》が、一度胸へ引込《ひっこ》んで、前屈《まえかが》みに、よたりと立つた。
杖を径《こみち》に突立《つきた》て/\、辿々《たどたど》しく下闇《したやみ》を蠢《うごめ》いて下《お》りて、城の方《かた》へ去るかと思へば、のろく後退《あとじさり》をしながら、茶店《ちゃみせ》に向つて、吻《ほっ》と、立直《たちなお》つて一息《ひといき》吐《つ》く。
紫玉の眉《まゆ》の顰《ひそ》む時、五|間《けん》ばかり軒《のき》を離れた、其処《そこ》で早《は》や、此方《こなた》へぐつたりと叩頭《おじぎ》をする。
知らない振《ふり》して、目をそらして、紫玉が釵《かんざし》に俯向《うつむ》いた。が、濃い睫毛《まつげ》の重く成るまで、坊主の影は近《ちかづ》いたのである。
「太夫様《たゆうさま》。」
ハツと顔を上げると、坊主は既に敷居を越えて、目前《めさき》の土間《どま》に、両膝《りょうひざ》を折つて居た。
「…………」
「お願《ねがい》でござります。……お慈悲《じひ》ぢや、お慈悲、お慈悲。」
仮初《かりそめ》に置いた涼傘《ひがさ》が、襤褸法衣《ぼろごろも》の袖《そで》に触れさうなので、密《そっ》と手元へ引いて、
「何ですか。」と、坊主は視ないで、茶屋の父娘《おやこ》に目を遣《や》つた。
立つて声を掛けて追はうともせず、父も娘も静《しずか》に視て居る。
五
少時《しばらく》すると、此の旱《ひでり》に水は涸《か》れたが、碧緑《へきりょく》の葉の深く繁れる中なる、緋葉《もみじ》の滝と云ふのに対して、紫玉は蓮池《はすいけ》の汀《みぎわ》を歩行《ある》いて居た。こゝに別に滝の四阿《あずまや》と称《とな》ふるのがあつて、八《や》ツ橋《はし》を掛け、飛石《とびいし》を置いて、枝折戸《しおりど》を鎖《とざ》さぬのである。
で、滝のある位置は、柳の茶屋からだと、もとの道へ小戻《こもど》りする事に成る。紫玉はあの、吹矢《ふきや》の径《みち》から公園へ入らないで、引返《ひきかえ》したので、……涼傘《ひがさ》を投遣《なげや》りに翳《かざ》しながら、袖《そで》を柔かに、手首をやゝ硬くして、彼処《あすこ》で抜いた白金《プラチナ》の鸚鵡《おうむ》の釵《かんざし》、其の翼を一寸《ちょっと》抓《つま》んで、晃乎《きらり》とぶら下げて居るのであるが。
仔細は希有《けう》な、……
坊主が土下座《どげざ》して「お慈悲、お慈悲。」で、お願《ねがい》と言ふのが金《かね》でも米でもない。施与《ほどこし》には違ひなけれど、変な事には「お禁厭《まじない》をして遣《つか》はされい。虫歯が疚《うず》いて堪へ難《がた》いでな。」と、成程《なるほど》左の頬《ほお》がぷくりとうだばれたのを、堪難《たえがた》い状《さま》に掌《てのひら》で抱《かか》へて、首を引傾《ひっかたむ》けた同じ方の一眼《いちがん》が白くどろんとして潰《つぶ》れて居る。其の目からも、ぶよ/\とした唇からも、汚《きたな》い液《しる》が垂れさうな塩梅《あんばい》。「お慈悲ぢや。」と更に拝んで、「手足に五|寸《すん》釘を打たれうとても、恁《かく》までの苦悩《くるしみ》はございますまいぞ、お情《なさけ》ぢや、禁厭《まじの》うて遣《つか》はされ。」で、禁厭《まじない》とは別儀《べつぎ》でな
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