慎ましく、
「竜神だと、女神《おんながみ》ですか、男神《おとこがみ》ですか。」
「さ、さ。」と老人は膝を刻んで、あたかもこの問《とい》を待構えたように、
「その儀は、とかくに申しまするが、いかがか、いずれとも相分りませぬ。この公園のずッと奥に、真暗《まっくら》な巌窟《いわや》の中に、一ヶ処清水の湧《わ》く井戸がござります。古色の夥《おびただ》しい青銅の竜が蟠《わだかま》って、井桁《いげた》に蓋《ふた》をしておりまして、金網を張り、みだりに近づいてはなりませぬが、霊沢金水《れいたくこんすい》と申して、これがためにこの市の名が起りましたと申します。これが奥の院と申す事で、ええ、貴方様《あなたさま》が御意の浦安神社は、その前殿《まえどの》と申す事でござります。御参詣《おまいり》を遊ばしましたか。」
「あ、いいえ。」と言ったが、すぐまた稚児の事が胸に浮んだ。それなり一時言葉が途絶える。
 森々《しんしん》たる日中《ひなか》の樹林、濃く黒く森に包まれて城の天守は前に聳《そび》ゆる。茶店の横にも、見上るばかりの槐《えんじゅ》榎《えのき》の暗い影が樅《もみ》楓《かえで》を薄く交《まじ》えて、藍緑《らんりょく》の流《ながれ》に群青《ぐんじょう》の瀬のあるごとき、たらたら上《あが》りの径《こみち》がある。滝かと思う蝉時雨《せみしぐれ》。光る雨、輝く木《こ》の葉、この炎天の下蔭は、あたかも稲妻に籠《こも》る穴に似て、もの凄《すご》いまで寂寞《ひっそり》した。
 木下闇《こしたやみ》、その横径《よこみち》の中途《なかほど》に、空屋かと思う、廂《ひさし》の朽ちた、誰も居ない店がある……

       四

 鎖《とざ》してはないものの、奥に人が居て住むかさえ疑わしい。それとも日が暮れると、白い首でも出てちとは客が寄ろうも知れぬ。店一杯に雛壇《ひなだん》のような台を置いて、いとど薄暗いのに、三方を黒布で張廻した、壇の附元《つけもと》に、流星《ながれぼし》の髑髏《しやれこうべ》、乾《ひから》びた蛾《ひとりむし》に似たものを、点々並べたのは的《まと》である。地方の盛場には時々見掛ける、吹矢の機関《からくり》とは一目|視《み》て紫玉にも分った。
 実《まこと》は――吹矢も、化ものと名のついたので、幽霊の廂合《ひあわい》の幕から倒《さかさま》にぶら下がり、見越入道《みこしにゅうどう》は誂《あつら》えた穴からヌッと出る。雪女は拵《こしら》えの黒塀に薄《うっす》り立ち、産女鳥《うぶめどり》は石地蔵と並んでしょんぼり彳《たたず》む。一ツ目小僧の豆腐買は、流灌頂《ながれかんちょう》の野川の縁《へり》を、大笠《おおがさ》を俯向《うつむ》けて、跣足《はだし》でちょこちょこと巧みに歩行《ある》くなど、仕掛ものになっている。……いかがわしいが、生霊《いきりょう》と札の立った就中《なかんずく》小さな的に吹当てると、床板ががらりと転覆《ひっくりかえ》って、大松蕈《おおまつたけ》を抱いた緋《ひ》の褌《ふんどし》のおかめが、とんぼ返りをして莞爾《にっこり》と飛出す、途端に、四方へ引張《ひっぱ》った綱が揺れて、鐘と太鼓がしだらでんで一斉《いちどき》にがんがらん、どんどと鳴って、それで市《いち》が栄えた、店なのであるが、一ツ目小僧のつたい歩行《ある》く波張《なみばり》が切々《きれぎれ》に、藪畳《やぶだたみ》は打倒《ぶったお》れ、飾《かざり》の石地蔵は仰向けに反って、視た処、ものあわれなまで寂れていた。
 ――その軒の土間に、背後《うしろ》むきに蹲《しゃが》んだ僧形《そうぎょう》のものがある。坊主であろう。墨染の麻の法衣《ころも》の破《や》れ破れな形《なり》で、鬱金《うこん》ももう鼠に汚れた布に――すぐ、分ったが、――三味線を一|挺《ちょう》、盲目《めくら》の琵琶《びわ》背負《じょい》に背負《しょ》っている、漂泊《さすら》う門附《かどづけ》の類《たぐい》であろう。
 何をか働く。人目を避けて、蹲《うずくま》って、虱《しらみ》を捻《ひね》るか、瘡《かさ》を掻《か》くか、弁当を使うとも、掃溜《はきだめ》を探した干魚《ほしうお》の骨を舐《しゃぶ》るに過ぎまい。乞食のように薄汚い。
 紫玉は敗竄《はいざん》した芸人と、荒涼たる見世ものに対して、深い歎息《ためいき》を漏らした。且つあわれみ、且つ可忌《いまわ》しがったのである。
 灰吹《はいふき》に薄い唾《つば》した。
 この世盛りの、思い上れる、美しき女優は、樹の緑蝉の声も滴《したた》るがごとき影に、框《かまち》も自然《おのず》から浮いて高い処に、色も濡々《ぬれぬれ》と水際立つ、紫陽花《あじさい》の花の姿を撓《たわ》わに置きつつ、翡翠《ひすい》、紅玉《ルビイ》、真珠など、指環《ゆびわ》を三つ四つ嵌《は》めた白い指をツト挙げて、鬢《びん》の後毛《おくれげ》を掻いたついでに、白金《プラチナ》の高彫《たかぼり》の、翼に金剛石《ダイヤ》を鏤《ちりば》め、目には血膸玉《スルウドストン》、嘴《くちばし》と爪に緑宝玉《エメラルド》の象嵌《ぞうがん》した、白く輝く鸚鵡《おうむ》の釵《かんざし》――何某《なにがし》の伯爵が心を籠めた贈《おくり》ものとて、人は知って、(伯爵)と称《とな》うるその釵を抜いて、脚を返して、喫掛《のみか》けた火皿の脂《やに》を浚《さら》った。……伊達《だて》の煙管《きせる》は、煙を吸うより、手すさみの科《しぐさ》が多い慣習《ならい》である。
 三味線背負った乞食坊主が、引掻《ひっか》くようにもぞもぞと肩を揺《ゆす》ると、一眼ひたと盲《し》いた、眇《めっかち》の青ぶくれの面《かお》を向けて、こう、引傾《ひっかたが》って、熟《じっ》と紫玉のその状《さま》を視ると、肩を抽《ぬ》いた杖《つえ》の尖《さき》が、一度胸へ引込《ひっこ》んで、前屈《まえかが》みに、よたりと立った。
 杖を径《こみち》に突立て突立て、辿々《たどたど》しく下闇《したやみ》を蠢《うごめ》いて下りて、城の方《かた》へ去るかと思えば、のろく後退《あとじさり》をしながら、茶店に向って、吻《ほっ》と、立直って一息|吐《つ》く。
 紫玉の眉の顰《ひそ》む時、五間ばかり軒を離れた、そこで早や、此方《こなた》へぐったりと叩頭《おじぎ》をする。
 知らない振《ふり》して、目をそらして、紫玉が釵に俯向《うつむ》いた。が、濃い睫毛《まつげ》の重くなるまで、坊主の影は近《ちかづ》いたのである。
「太夫様。」
 ハッと顔を上げると、坊主は既に敷居を越えて、目前《めさき》の土間に、両膝を折っていた。
「…………」
「お願でござります。……お慈悲じゃ、お慈悲、お慈悲。」
 仮初《かりそめ》に置いた涼傘《ひがさ》が、襤褸《ぼろ》法衣《ごろも》の袖に触れそうなので、密《そっ》と手元へ引いて、
「何ですか。」と、坊主は視ないで、茶屋の父娘《おやこ》に目を遣《や》った。
 立って声を掛けて追おうともせず、父も娘も静《しずか》に視ている。

       五

 しばらくすると、この旱《ひでり》に水は涸《か》れたが、碧緑《へきりょく》の葉の深く繁れる中なる、緋葉《もみじ》の滝と云うのに対して、紫玉は蓮池《はすいけ》の汀《みぎわ》を歩行《ある》いていた。ここに別に滝の四阿《あずまや》と称うるのがあって、八ツ橋を掛け、飛石を置いて、枝折戸《しおりど》を鎖《とざ》さぬのである。
 で、滝のある位置は、柳の茶屋からだと、もとの道へ小戻りする事になる。紫玉はあの、吹矢の径《みち》から公園へ入らないで、引返したので、……涼傘を投遣《なげや》りに翳《かざ》しながら、袖を柔かに、手首をやや硬くして、あすこで抜いた白金《プラチナ》の鸚鵡《おうむ》の釵《かんざし》、その翼をちょっと抓《つま》んで、きらりとぶら下げているのであるが。
 仔細《しさい》は希有《けう》な、……
 坊主が土下座して「お慈悲、お慈悲。」で、お願というのが金でも米でもない。施与《ほどこし》には違いなけれど、変な事には「お禁厭《まじない》をして遣わされい。虫歯が疚《うず》いて堪え難いでな。」と、成程左の頬がぷくりとうだばれたのを、堪難い状《さま》に掌《てのひら》で抱えて、首を引傾《ひっかたむ》けた同じ方の一眼が白くどろんとして潰《つぶ》れている。その目からも、ぶよぶよした唇からも、汚い液《しる》が垂れそうな塩梅《あんばい》。「お慈悲じゃ。」と更に拝んで、「手足に五寸釘を打たりょうとても、かくまでの苦悩《くるしみ》はございますまいぞ、お情《なさけ》じゃ、禁厭《まじの》うて遣わされ。」で、禁厭とは別儀でない。――その紫玉が手にした白金《プラチナ》の釵を、歯のうろへ挿入《さしいれ》て欲しいのだと言う。
「太夫様お手ずから。……竜と蛞蝓《なめくじ》ほど違いましても、生《しょう》あるうちは私《わし》じゃとて、芸人の端くれ。太夫様の御光明《おひかり》に照らされますだけでも、この疚痛《いたみ》は忘られましょう。」と、はッはッと息を吐《つ》く。……
 既に、何人《なんぴと》であるかを知られて、土に手をついて太夫様と言われたのでは、そのいわゆる禁厭の断り悪《にく》さは、金銭の無心をされたのと同じ事――但し手から手へ渡すも恐れる……落して釵を貸そうとすると、「ああ、いや、太夫様、お手ずから。……貴女様《あなたさま》の膚《はだ》の移香《うつりが》、脈の響《ひびき》をお釵から伝え受けたいのでござります。貴方様の御血脈《おけちみゃく》、それが禁厭になりますので、お手に釵の鳥をばお持ち遊ばされて、はい、はい、はい。」あん、と口を開いた中へ、紫玉は止《や》む事を得ず、手に持添えつつ、釵の脚を挿入れた。
 喘《あえ》ぐわ、舐《しゃぶ》るわ!鼻息がむッと掛《かか》る。堪《たま》らず袖を巻いて唇を蔽《おお》いながら、勢い釵とともに、やや白やかな手の伸びるのが、雪白《せっぱく》なる鵞鳥《がちょう》の七宝の瓔珞《ようらく》を掛けた風情なのを、無性髯《ぶしょうひげ》で、チュッパと啜込《すすりこ》むように、坊主は犬蹲《いぬつくばい》になって、頤《あご》でうけて、どろりと嘗《な》め込む。
 と、紫玉の手には、ずぶずぶと響いて、腐れた瓜を突刺す気味合《きみあい》。
 指環は緑紅の結晶したる玉のごとき虹《にじ》である。眩《まぶ》しかったろう。坊主は開いた目も閉じて、※[#「りっしんべん+(くさかんむり/あみがしら/冖/目)」、第4水準2−12−81]《ぼう》とした顔色《がんしょく》で、しっきりもなしに、だらだらと涎《よだれ》を垂らす。「ああ、手がだるい、まだ?」「いま一息。」――
 不思議な光景《ようす》は、美しき女が、針の尖《さき》で怪しき魔を操る、舞台における、神秘なる場面にも見えた。茶店の娘とその父は、感に堪えた観客《かんかく》のごとく、呼吸《いき》を殺して固唾《かたず》を飲んだ。
 ……「ああ、お有難や、お有難い。トンと苦悩を忘れました。お有難い。」と三味線包、がっくりと抜衣紋《ぬきえもん》。で、両掌《りょうて》を仰向け、低く紫玉の雪の爪先《つまさき》を頂く真似して、「かように穢《むさ》いものなれば、くどくどお礼など申して、お身近はかえってお目触《めざわ》り、御恩は忘れぬぞや。」と胸を捻《ね》じるように杖で立って、
「お有難や、有難や。ああ、苦を忘れて腑《ふ》が抜けた。もし、太夫様。」と敷居を跨《また》いで、蹌踉《よろけ》状《ざま》に振向いて、「あの、そのお釵に……」――「え。」と紫玉が鸚鵡を視《み》る時、「歯くさが着いてはおりませぬか。恐縮《おそれ》や。……えひひ。」とニヤリとして、
「ちゃっとお拭《ふ》きなされませい。」これがために、紫玉は手を掛けた懐紙《ふところがみ》を、余儀なくちょっと逡巡《ためら》った。
 同時に、あらぬ方《かた》に蒼《つ》と面《おもて》を背けた。

       六

 紫玉は待兼ねたように懐紙《かいし》を重ねて、伯爵、を清めながら、森の径《こみち》へ行《ゆ》きましたか、坊主は、と訊《き》いた。父も娘も、へい、と言って、大方そうだろうと言う。――もう影もなかっ
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