かりはあろう。
 玉野は上手《あじ》を遣《や》る。
 さす手が五十ばかり進むと、油を敷いたとろりとした静《しずか》な水も、棹に掻かれてどこともなしに波紋が起った、そのせいであろう。あの底知らずの竜の口とか、日射《ひざし》もそこばかりはものの朦朧《もうろう》として淀《よど》むあたりに、――微《そよ》との風もない折から、根なしに浮いた板ながら真直《まっすぐ》に立っていた白い御幣が、スースーと少しずつ位置を転《か》えて、夢のように一寸二寸ずつ動きはじめた。
 凝《じっ》と、……視《み》るに連れて、次第に、緩く、柔かに、落着いて弧を描きつつ、その円い線の合する処で、またスースーと、一寸二寸ずつ動出すのが、何となく池を広く大きく押拡げて、船は遠く、御幣ははるかに、不思議に、段々|汀《みぎわ》を隔るのが心細いようで、気も浮《うっ》かりと、紫玉は、便《たより》少ない心持《ここち》がした。
「大丈夫かい、あすこは渦を巻いているようだがね。」
 欄干に頬杖したまま、紫玉は御幣を凝視《みつ》めながら言った。
「詰《つま》りませんわ、少し渦でも巻かなけりゃ、余《あんま》り静で、橋の上を這っているようですもの
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