ったが、五日も七日もこう降り続くと、どこの道もまるで泥海のようであるから、勤人《つとめにん》が大路の往還《ゆきき》の、茶なり黒なり背広で靴は、まったく大袈裟《おおげさ》だけれど、狸が土舟という体《てい》がある。
 秦氏も御多分に漏れず――もっとも色が白くて鼻筋の通った処はむしろ兎の部に属してはいるが――歩行《あるき》悩んで、今日は本郷どおりの電車を万世橋で下りて、例の、銅像を横に、大《おおき》な煉瓦《れんが》を潜《くぐ》って、高い石段を昇った。……これだと、ちょっと歩行《ある》いただけで甲武線は東京の大中央を突抜けて、一息に品川へ……
 が、それは段取だけの事サ、時間が時間だし、雨は降る……ここも出入《ではいり》がさぞ籠むだろう、と思ったより夥《おびただ》しい混雑で、ただ停車場などと、宿場がって済《すま》してはおられぬ。川留《かわどめ》か、火事のように湧立《わきた》ち揉合《もみあ》う群集の黒山。中野行を待つ右側も、品川の左側も、二重三重に人垣を造って、線路の上まで押覆《おっかぶ》さる。
 すぐに電車が来た処で、どうせ一度では乗れはしまい。
 宗吉はそう断念《あきら》めて、洋傘《こうもり》の雫《しずく》を切って、軽く黒の外套《がいとう》の脇に挟みながら、薄い皮の手袋をスッと手首へ扱《しご》いて、割合に透いて見える、なぜか、硝子囲《がらすがこい》の温室のような気のする、雨気《あまけ》と人の香の、むっと籠《こも》った待合の裡《うち》へ、コツコツと――やはり泥になった――侘《わびし》い靴の尖《さき》を刻んで入った時、ふとその目覚しい処を見たのである。
 たしか、中央の台に、まだ大《おおき》な箱火鉢が出ていた……そこで、ハタと打撞《ぶつか》ったその縮緬の炎から、急に瞳を傍《わき》へ外《そ》らして、横ざまにプラットフォームへ出ようとすると、戸口の柱に、ポンと出た、も一つ赤いもの。

       二

 威《おどか》しては不可《いけな》い。何、黒山の中の赤帽で、そこに腕組をしつつ、うしろ向きに凭掛《もたれかか》っていたが、宗吉が顔を出したのを、茶色のちょんぼり髯《ひげ》を生《はや》した小白い横顔で、じろりと撓《た》めると、
「上りは停電……下りは故障です。」
 と、人の顔さえ見れば、返事はこう言うものと極《き》めたようにほとんど機械的に言った。そして頸窪《ぼんのくぼ》をその凭掛
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