も言われなかったか。
図書 いや、承りませぬ。
夫人 そして、お前も、こう見届けた上に、どうしようとも思いませぬか。
図書 お天守は、殿様のものでございます。いかなる事がありましょうとも、私《わたくし》一存にて、何と計らおうとも決して存じませぬ。
夫人 お待ち。この天守は私のものだよ。
図書 それは、貴方《あなた》のものかも知れませぬ。また殿様は殿様で、御自分のものだと御意遊ばすかも知れませぬ。しかし、いずれにいたせ、私《わたくし》のものでないことは確《たしか》でございます。自分のものでないものを、殿様の仰せも待たずに、どうしようとも思いませぬ。
夫人 すずしい言葉だね、その心なれば、ここを無事で帰られよう。私も無事に帰してあげます。
図書 冥加《みょうが》に存じます。
夫人 今度は、播磨が申しきけても、決して来てはなりません。ここは人間の来る処ではないのだから。――また誰も参らぬように。
図書 いや、私《わたくし》が参らぬ以上は、五十万石の御家中、誰一人参りますものはございますまい。皆|生命《いのち》が大切でございますから。
夫人 お前は、そして、生命は欲しゅうなかったのか。
図書 私《わたくし》は、仔細《しさい》あって、殿様の御不興を受け、お目通《めどおり》を遠ざけられ閉門の処、誰もお天守へ上《あが》りますものがないために、急にお呼出しでございました。その御上使は、実は私《わたくし》に切腹仰せつけの処を、急に御模様がえになったのでございます。
夫人 では、この役目が済めば、切腹は許されますか。
図書 そのお約束でございました。
夫人 人の生死《いきしに》は構いませんが、切腹はさしたくない。私は武士の切腹は嫌いだから。しかし、思い掛《がけ》なく、お前の生命《いのち》を助けました。……悪い事ではない。今夜はいい夜《よ》だ。それではお帰り。
図書 姫君。
夫人 まだ、居ますか。
図書 は、恐入ったる次第ではございますが、御姿を見ました事を、主人に申まして差支えはございませんか。
夫人 確《たしか》にお言いなさいまし。留守でなければ、いつでも居るから。
図書 武士の面目に存じます――御免。
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雪洞《ぼんぼり》を取って静《しずか》に退座す。夫人|長煙管《ながぎせる》を取って、払《はた》く音に、図書板敷にて一度|留《とど》まり、直ちに階子《はしご》の口
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