、額《ひたい》に手を加ふること頃刻《けいこく》にして、桂木は猛然として立つたのである。
 扨《さて》今朝《こんちょう》、此の辺からは煙も見えず、音も聞えぬ、新|停車場《ステエション》で唯《ただ》一|人《にん》下《お》り立つて、朝霧《あさぎり》の濃《こま》やかな野中《のなか》を歩《ほ》して、雨になつた午《ご》の時《とき》過ぎ、媼《おうな》の住居《すまい》に駈《か》け込んだまで、未《ま》だ嘗《かつ》て一度も煙を銃身に絡《から》めなかつた。
 桂木は其の病《や》まざる前《ぜん》の性質に復《ふく》したれば、貴夫人が情《なさけ》ある贈物に酬《むく》いるため――函嶺《はこね》を越ゆる時汽車の中で逢《あ》つた同窓の学友に、何処《どちら》へ、と問はれて、修善寺《しゅぜんじ》の方へ蜜月《みつづき》の旅と答へた――最愛なる新婚の婦《ふ》、ポネヒル姫の第一発は、仇《あだ》に田鴫《たしぎ》山鳩《やまばと》如きを打たず、願はくは目覚《めざま》しき獲物を提《ひっさ》げて、土産《みやげ》にしようと思つたので。
 時ならぬ洪水、不思議の風雨《ふうう》に、隙《ひま》なく線路を損《そこな》はれて、官線ならぬ鉄道は其の停車場《ステエション》を更《か》へた位、殊《こと》に桂木の一《いっ》家族に取つては、祖先、此の国を領した時分から、屡々《しばしば》易《やす》からぬ奇怪の歴史を有する、三里の荒野《あれの》を跋渉《ばっしょう》して、目に見ゆるもの、手に立つもの、対手《あいて》が人類の形でさへなかつたら、覚えの狙撃《ねらいうち》で射《い》て取らうと言ふのであるから。
 霧も雲も歩行《ある》くと語つた、仔細ありげな媼《おうな》の言《ことば》を物ともせず、暖めた手で、びツしよりの草鞋《わらじ》の紐《ひも》を解《と》きかける。
 油断はしないが俯向《うつむ》いたまゝ、
「私は又《また》不思議な物でも通るかと思つて悚然《ぞっ》とした、お媼《ばあ》さん、此様《こん》な処《ところ》に一人で居て、昼間だつて怖《おそろ》しくはないのですか。」
 桂木は疾《と》く媼の口の、炎でも吐《は》けよかしと、然《さ》り気《げ》なく誘ひかける。
 媼は額《ひたい》の上に綿《わた》を引いて、
「何が恐《おそろ》しからうぞ、今時の若いお人にも似ぬことを言はつしやる、狼《おおかみ》より雨漏《あまもり》が恐しいと言ふわいの。」
 と又《また》背を屈
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