《おおあぐら》を掻く。
 呆気《あっけ》に取られて立《たち》すくむと、
「おお、これ、あんた、あんたも衣《き》ものを脱ぎなさい。みな裸体《はだか》じゃ。そうすればお客人の遠慮がのうなる。……ははははは、それが何より。さ、脱ぎなさい脱ぎなさい。」
 串戯《じょうだん》にしてもと、私は吃驚《びっくり》して、言《ことば》も出ぬのに、女はすぐに幅狭《はばぜま》な帯を解いた。膝へ手繰《たぐ》ると、袖《そで》を両方へ引落《ひきおと》して、雪を分けるように、するりと脱ぐ。……膚《はだ》は蔽《おお》うたよりふっくりと肉を置いて、脊筋《せすじ》をすんなりと、撫肩《なでがた》して、白い脇を乳《ちち》が覗《のぞ》いた。それでも、脱ぎかけた浴衣《ゆかた》をなお膝に半ば挟《はさ》んだのを、おっ、と這《は》うと、あれ、と言う間《ま》に、亭主がずるずると引いて取った。
「はははは。」
 と笑いながら。
 既にして、朱鷺色《ときいろ》の布一重《ぬのひとえ》である。
 私も脱いだ。汗は垂々《たらたら》と落ちた。が、憚《はばか》りながら褌《ふんどし》は白い。一輪の桔梗《ききょう》の紫の影に映《は》えて、女はうるおえる玉のようであった。
 その手が糸を曳《ひ》いて、針をあやつったのである。
 縫えると、帯をしめると、私は胸を折るようにして、前のめりに木戸口へ駈出《かけだ》した。挨拶は済ましたが、咄嗟《とっさ》のその早さに、でっぷり漢《もの》と女は、衣《きもの》を引掛《ひっか》ける間もなかったろう……あの裸体《はだか》のまま、井戸の前を、青すすきに、白く摺《す》れて、人の姿の怪《あや》しい蝶《ちょう》に似て、すっと出た。
 その光景は、地獄か、極楽か、覚束《おぼつか》ない。
「あなた……雀さんに、よろしく。」
 と女が莞爾《にっこり》して言った。
 坂を駈上《かけあが》って、ほっと呼吸《いき》を吐《つ》いた。が、しばらく茫然として彳《たたず》んだ。――電車の音はあとさきに聞えながら、方角が分らなかった。直下の炎天に目さえくらむばかりだったのである。
 時に――目の下の森につつまれた谷の中から、一《いっ》セイして、高らかに簫《しょう》の笛が雲の峯に響いた。
 ……話の中に、稽古《けいこ》の弟子も帰ったと言った。――あの主人は、簫を吹くのであるか。……そういえば、余りと言えば見馴れない風俗《ふう》だから、見た目をさえ疑うけれども、肥大漢《でっぷりもの》は、はじめから、裸体《はだか》になってまで、烏帽子《えぼし》のようなものをチョンと頭にのせていた。

「奇人だ。」
「いや、……崖下《がけした》のあの谷には、魔窟があると言う。……その種々《いろいろ》の意味で。……何しろ十年ばかり前には、暴風雨《あらし》に崖くずれがあって、大分、人が死んだ処《ところ》だから。」――
 と或《ある》友だちは私に言った。
 炎暑、極熱のための疲労《つかれ》には、みめよき女房の面《おもて》が赤馬《あかうま》の顔に見えたと言う、むかし武士《さむらい》の話がある。……霜《しも》が枝に咲くように、汗――が幻を描いたのかも知れない。が、何故《なぜ》か、私は、……実を言えば、雀の宿にともなわれたような思いがするのである。
 かさねてと思う、日をかさねて一月《ひとつき》にたらず、九月|一日《いちにち》のあの大地震であった。
「雀たちは……雀たちは……」
 火を避けて野宿しつつ、炎の中に飛ぶ炎の、小鳥の形を、真夜半《まよなか》かけて案じたが、家に帰ると、転げ落ちたまま底に水を残して、南天《なんてん》の根に、ひびも入《い》らずに残った手水鉢《ちょうずばち》のふちに、一羽、ちょんと伝っていて、顔を見て、チイと鳴いた。
 後に、密《そっ》と、谷の家を覗《のぞ》きに行った。近づくと胸は轟《とどろ》いた。が、ただ焼原《やけはら》であった。
 私は夢かとも思う。いや、雀の宿の気がする。……あの大漢《おおおとこ》のまる顔に、口許《くちもと》のちょぼんとしたのを思え。卯《う》の毛で胡粉《ごふん》を刷《は》いたような女の膚《はだ》の、どこか、頤《あぎと》の下あたりに、黒いあざはなかったか、うつむいた島田髷《しまだ》の影のように――
 おかしな事は、その時|摘《つ》んで来たごんごんごまは、いつどうしたか定かには覚えないのに、秋雨《あきさめ》の草に生えて、塀を伝っていたのである。
「どうだい、雀。」
 知らぬ顔して、何にも言わないで、南天燭《なんてん》の葉に日の当る、小庭に、雀はちょん、ちょんと遊んでいる。



底本:「鏡花短篇集」川村二郎編、岩波文庫、岩波書店
   1987(昭和62)年9月16日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第二七卷」岩波書店
   1942(昭和17)年10月
入力:砂場清隆
校正:松永正敏
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