ばかり茂って、蕾《つぼみ》を持たない。丁《ちょう》ど十年目に、一昨年の卯月《うづき》の末にはじめて咲いた。それも塀を高く越した日当《ひあたり》のいい一枝だけ真白に咲くと、その朝から雀がバッタリ。意気地なし。また丁《ちょう》どその卯の花の枝の下に御飯《おまんま》が乗っている。前年の月見草で心得て、この時は澄ましていた。やがて一羽ずつ密《そっ》と来た。忽《たちま》ち卯の花に遊ぶこと萩に戯《たわむ》るるが如しである。花の白いのにさえ怯《おび》えるのであるから、雪の降った朝の臆病思うべしで、枇杷塚《びわづか》と言いたい、むこうの真白の木の丘に埋《うずも》れて、声さえ立てないで可哀《あわれ》である。
椿の葉を払っても、飛石の上を掻分《かきわ》けても、物干に雪の溶けかかった処《ところ》へ餌《え》を見せても影を見せない。炎天、日盛《ひざかり》の電車道《でんしゃみち》には、焦《こ》げるような砂を浴びて、蟷螂《とうろう》の斧《おの》と言った強いのが普通だのに、これはどうしたものであろう。……はじめ、ここへ引越したてに、一、二年いた雀は、雪なんぞは驚かなかった。山を兎《うさぎ》が飛ぶように、雪を蓑《みの》にして、吹雪を散らして翔《か》けたものを――
ここで思う。その児《こ》、その孫、二代三代に到って、次第おくり、追続《おいつ》ぎに、おなじ血筋ながら、いつか、黄色な花、白い花、雪などに対する、親雀の申しふくめが消えるのであろうと思う。
泰西《たいせい》の諸国にて、その公園に群《むらが》る雀は、パンに馴れて、人の掌《てのひら》にも帽子にも遊ぶと聞く。
何故《なぜ》に、わが背戸《せど》の雀は、見馴れない花の色をさえ恐るるのであろう。実《げ》に花なればこそ、些《ちっ》とでも変った人間の顔には、渠《かれ》らは大《おおい》なる用心をしなければならない。不意の礫《つぶて》の戸に当る事|幾度《いくたび》ぞ。思いも寄らぬ蜜柑《みかん》の皮、梨の核《しん》の、雨落《あまおち》、鉢前《はちまえ》に飛ぶのは数々《しばしば》である。
牛乳屋《ちちや》が露地へ入れば驚き、酒屋の小僧が「今日《こんち》は」を叫べば逃げ、大工が来たと見ればすくみ、屋根屋が来ればひそみ、畳屋《たたみや》が来ても寄りつかない。
いつかは、何かの新聞で、東海道の何某《なにがし》は雀うちの老手である。並木づたいに御油《ごゆ》から赤
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