、下屋を這出しました時が、なお術のうござりましてござります。」
「ほほほ可厭《いや》な、この人は。……最初はな、内証で情婦《いろ》に逢やはるより何の余所《よそ》の人でないものを、私の姿を見て隠れやはった心の裡《うち》が、水臭いようにあって、口惜《くやし》いと思うたけれど、な、……手を支《つ》いて詫《わび》言《い》やはる……その時に、門《かど》のとまりに、ちょんと乗って、むぐむぐ柿を頬張っていた、あの、大《おおき》な猿が、土間へ跳下《とびお》りて、貴下《あんた》と一所に、頭を土へ附けたのには、つい、おろおろと涙が出たえ。
柿は、貴下の土産やったそうに聞くな。
天王寺の境内で、以前舞わしてやった、あの猿。どないなった問うた時、ちと知縁のものがあって、その方へ、とばかり言うて、預けた先方《さき》を話しなはらん、住吉辺の田舎へなと思うたら、大切《だいじ》な許《とこ》に居るやもの。
おお、それなりで、貴方《あんた》たちを、私が方へ、無理に連れもうて来てしもうたが、うっかりしたな、お爺はんは、今夜は私の市女笠持って附いてもらうよって、それも留守。あの、猿はどうしたやろな。」
「はい、」
と娘が引取った、我が身の姿と、この場の光景《ようす》、踊のさらいに台辞《せりふ》を云うよう、細く透《とお》る、が声震えて、
「お爺さんが留守の時も、あの、戸を閉めた中に居て、ような、いつも留守してくれますのえ。」
二十二
「飼主とは申しましても、かえって私の方が養われました、あの、猿でさえ、……」
多一は片手に胸を圧《おさ》えて、
「御寮人様は申すまでもござりません、大道からお拾い下さりました。……また旦那様の目を盗みまして、私は実に、畜生にも劣りました、……」
「何や……怪我《けが》に貴方《あんた》は何やかて、美津《みい》さんは天人や、その人の夫やもの。まあ、二人して装束をお見やす、雛《ひな》を並べたようやないか。
けどな、多一さん、貴下《あんた》な、九太夫やったり、そのな、額の疵《きず》で、床下から出やはった処は仁木《にっき》どすせ。沢山《たんと》忠義な家来ではどちらやかてなさそうな。」
と軽口に、奥もなく云うて退《の》けたが、ほんのりと潤《うる》みのある、瞼《まぶた》に淡く影が映《さ》した。
「ああ、わやく云う事やない。……貴方《あんた》、その疵、ほんとにもう疼痛《いたみ》はないか。こないした嬉しさに、ずきずきしたかて忘らりょう。けど、疵は刻んで消えまいな。私が傍《そば》に居たものを。美津《みい》さんの大事な男に、怪我させて済まなんだな。
そやけど、美津さん、怨《うら》みにばかり、思いやすな。何百人か人目の前で、打擲《ちょうちゃく》されて、熟《じっ》と堪《こら》えていやはったも、辛抱しとげて、貴女《あんた》と一所に、添遂げたいばかりなんえ。そしたら、男の心中《しんじゅう》の極印《ごくいん》打ったも同じ事、喜んだかて可《い》いのどす。」
お美津は堪《こら》えず、目に袖を当てようとした。が、朱鷺色《ときいろ》衣に裏白きは、神の前なる薄紅梅、涙に濡らすは勿体ない。緋縮緬を手に搦《から》む、襦袢は席の乱れとて、強いて堪えた頬の靨《えくぼ》に、前髪の艶しとしとと。
お珊は眦《まなじり》を多一に返して、
「な、多一さんもそうだすやろな。」
「はい!」と聞返すようにする。
「丸官はんに、柿の核《たね》吹かけられたり、口車に綱つけて廊下を引摺廻されたり、羅宇《らう》のポッキリ折れたまで、そないに打擲されやして、死身《しにみ》になって堪えなはったも、誰にした辛抱でもない、皆、美津さんのためやろな。」
「…………」
「なあ、貴方、」
「…………」
「ええ、多一さん、新枕《にいまくら》の初言葉《ういことば》と、私もここでちゃんと聞く。……女子《おなご》は女子同士やよって、美津さんの味方して、私が聞きたい。貴方はそうはなかろうけど、男は浮気な……」
と見る、月がぱっちりと輝いた。多一は俯向《うつむ》いて見なかった。
「……ものやさかい、美津さんの後の手券《てがた》に、貴方の心を取っておく。ああまで堪えやした辛抱は、皆女子へ、」
「ええ、」
「あの、美津さんへの心中だてかえ。」
多一はハッと畳に手を……その素袍、指貫《さしぬき》に、刀なき腰は寂しいものであった。
「御寮人様、御推量を願いとうござります。誓文それに相違ござりません。」
お美津の両手も、鶴の白羽の狩衣に、玉を揃えて、前髪摺れに支《つ》いていた、簪《かんざし》の橘《たちばな》薫りもする。
「おお……嬉し……」
と胸を張って、思わず、つい云う。声の綾《あや》に、我を忘れて、道成寺の一条《ひとくだり》の真紅の糸が、鮮麗《あざやか》に織込まれた。
それは禁制の錦《にしき》で
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