云うたかて、多一さんと貴女《あんた》とは、前世から約束したほど、深い交情《なか》でおいでる様子。今更ではあるまいけれど、私とは不思議な御縁やな。
思うてみれば、一昨日《おととい》の夜《よ》さり、中の芝居で見たまでは天王寺の常楽会《じょうらくえ》にも、天神様の御縁日にも、ついぞ出会うた事もなかったな。
一見《いちげん》でこうなった。
貴女《あんた》な、ようこそ、芝居の裏で、お爺《じい》はんの肩|摺《さす》って上げなはった。多一さんも人目忍んで、貴女の孝行手伝わはった。……自分介抱するよって、一条《ひとくさり》なと、可愛い可愛い女房《おかみ》はんに、沢山《たんと》芝居を見せたい心や。またな、その心を汲取《くみと》って、鶉《うずら》へ嬉々《いそいそ》お帰りやした、貴女の優しい、仇気《あどけ》ない、可愛らしさも身に染みて。……
私はな、丸官はんに、軋々《ぎしぎし》と……四角な天窓《あたま》乗せられて、鶉の仕切も拷問《ごうもん》の柱とやら、膝も骨も砕けるほど、辛い苦しい堪え難い、石を抱く責苦に逢うような中でも、身節《みふし》も弛《ゆる》んで、恍惚《うっとり》するまで視《なが》めていた。あの………扉《ひらき》の、お仕置場らしい青竹の矢来《やらい》の向うに……貴女等《あんたたち》の光景《ようす》をば。――
悪事は虎の千里走る、好《い》い事は、花の香ほども外へは漏れぬ言うけれど、貴女《あんた》二人は孝行の徳、恋の功《てがら》、恩愛の報《むくい》だすせ。誰も知るまい、私一人、よう知った。
逢阪に店がある、餅屋の評判のお娘《こ》さん、御両親《おふたおや》は、どちらも行方《ゆきがた》知れずなった、その借銭やら何やらで、苦労しなはる、あのお爺さんの孫や事まで、人に聞いて知ったよって、ふとな、彼やこれや談合しよう気になったも、私ばかりの心やない。
天満の天神様へ行た、その帰途《かえり》に、つい虚気々々《うかうか》と、もう黄昏《たそがれ》やいう時を、寄ってみたい気になって、貴女の餅屋へ土産買う振りで入ったら、」
と微笑みながら、二人を前に。
「多一さんが、使の間《ま》をちょっと逢いに寄って、町並|灯《あかり》の点《とも》された中に、その店だけは灯《ひ》もつけぬ、暗いに島田が黒かったえ。そのな、繃帯が白う見えた。」
二十一
小指を外《そ》らして指の輪を、我目の前《さき》へ、……お珊はそれが縁を結ぶ禁厭《まじない》であるようにした。
「密々《ひそひそ》、話していやはったな。……そこへ、私が行合《ゆきあ》[#ルビの「ゆきあ」は底本では「ゆきわ」]わせたも、この杯の瑞祥《ずいしょう》だすぜ。
ここで夫婦にならはったら、直ぐにな、別に店を出してもらうなり、世帯《しょたい》持ってそこから本店《ほんだな》へ通うなり、あの、お爺はんと、三人、あんじょ暮らして行《ゆ》かはるように、私がちゃと引受けた。弟、妹の分にして、丸官はんに否《いや》は言わせぬ。よって、安心おしやすや。え、嬉しいやろ。美津《みい》さんが、あの、嬉しそうなえ。
どうや、九太夫《くだゆう》はん。」
と云った、お珊は、密《そっ》と声を立てて、打解けた笑顔になった。
多一は素袍の浅葱《あさぎ》を濃く、袖を緊《し》めて、またその顔を、はッと伏せる。
「ほほほほ多一さん、貴下《あんた》、そうむつかしゅうせずと、胡坐《じょうら》組む気で、杯しなはれ。私かて、丸官はんの傍《そば》に居るのやない、この一月は籍のある、富田屋《とんだや》の以前の芸妓《げいこ》、そのつもりで酌をするのえ。
仮祝言や、儀式も作法も預かるよってな。後《のち》にまたあらためて、歴然《れっき》とした媒妁人《なこうど》立てる。その媒妁人やったら、この席でこないな串戯《わやく》は言えやへん。
そない極《きま》らずといておくれやす。なあ、九太夫はん。」
「御寮人様。」
と片手を畳へ、
「私はもう何も存じません、胸一杯で、ものも申されぬようにござります。が、その九太夫は情《なさけ》のうござります。」
と、術なき中にも、ものの嬉しそうな笑《えみ》を含んだ。
「そうやかて、貴方《あんた》、一昨日《おととい》の暮方、餅屋の土間に、……そないして、話していなはった処へ、私が、ト行た……姿を見ると、腰掛|框《かまち》の縁の下へ、慌てもうて、潜って隠れやはったやないかいな。」
言う――それは事実であった。――
「はい、唯今でこそ申します、御寮人様がまたお意地の悪い。その框《かまち》へ腰をお掛けなされまして、盆にあんころ餅寄越せ、茶を持てと、この美津に御意ござります。
その上、入る穴はなし、貴女様の召しものの薫《かおり》が、魔薬とやらを嗅《か》ぎますようで、気が遠くなりました。
その辛さより、犬になってのこのこと
前へ
次へ
全26ページ中18ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング