ん。」
「私は例のかと思った、……」
「ありゃ天満の亀《かめ》の子煎餅《こせんべい》、……成程亀屋の隠居でしょう。誰が、貴方、あんな婆さんが禁厭《まじない》の蛇なんぞを、」
「ははあ、少《わか》いものでなくっちゃ、利かないかね。」
「そりゃ……色恋の方ですけれど……慾《よく》の方となると、無差別ですから、老年《としより》はなお烈しいかも知れません。
 分けてこの二三日は、黒焼屋の蛇が売れ盛るって言います……誓文払《せいもんばらい》で、大阪中の呉服屋が、年に一度の大見切売をしますんでね、市中もこの通りまた別して賑《にぎわ》いまさ。
 心斎橋筋の大丸なんかでは、景物の福引に十両二十両という品ものを発奮《はず》んで出しますんで、一番引当てよう了簡《りょうけん》で、禁厭《まじない》に蛇の袋をぶら下げて、杖を支《つ》いて、お十夜という形で、夜中に霜を踏んで、白髪《しらが》で橋を渡る婆さんもあるにゃあるんで。」

       六

 男衆もちょっと町中《まちなか》を※[#「目+句」、第4水準2−81−91]《みまわ》した。
「まったくかも知れません、何しろ、この誓文払の前後に、何千|条《すじ》ですかね、黒焼屋の瓶《かめ》が空虚《から》になった事があるって言いますから。慾は可恐《おそろ》しい。悪くすると、ぶら提げてるのに打撞《ぶつか》らないとも限りませんよ。」
「それ! だから云わない事じゃない。」
 内端《うちわ》ながら二ツ三ツ杖《ステッキ》を掉《ふ》って、
「それでなくッてさえ、こう見渡した大阪の町は、通《とおり》も路地も、どの家も、かッと陽気に明《あかる》い中に、どこか一個所、陰気な暗い処が潜《ひそ》んで、礼儀作法も、由緒因縁も、先祖の位牌《いはい》も、色も恋も罪も報《むくい》も、三世相一冊と、今の蛇一疋ずつは、主《ぬし》になって隠れていそうな気がする処へ、蛇瓶の話を昨日《きのう》聞いて、まざまざと爪立足《つまだちあし》で、黒焼屋の前を通ってからというものは、うっかりすると、新造《しんぞ》も年増も、何か下掻《したがい》の褄《つま》あたりに、一条《ひとすじ》心得ていそうでならない。
 昨夜《ゆうべ》も、芝居で……」
 男衆は思出したように、如才なく一ツ手を拍《う》った。
「時に、どうしたと云うんですえ、お珊さんが、その旦那と?……」
「まあ、お聞き――隣合った私の桟敷に、髪を桃割《ももわれ》に結って、緋の半襟で、黒繻子《くろじゅす》の襟を掛けた、黄の勝った八丈といった柄の着もの、紬《つむぎ》か何か、絣《かすり》の羽織をふっくりと着た。ふさふさの簪《かんざし》を前のめりに挿して、それは人柄な、目の涼しい、眉の優しい、口許《くちもと》の柔順《すなお》な、まだ肩揚げをした、十六七の娘が、一人入っていたろう。……出来るだけおつくりをしたろうが、着ものも帯も、余りいい家《うち》の娘じゃないらしいのが、」
「居ました。へい、親方が、貴方に差上げた桟敷ですから、人の入る訳はないが、と云って、私が伺いましたっけ。貴方が、(構いやしない。)と仰有《おっしゃ》るし、そこはね、大したお目触りのものではなし……あの通りの大入で、ちょっと退《ど》けようッて空場《あな》も見つからないものですから、それなりでお邪魔を願ッておきました。
 後で聞きますと、出方が、しんせつに、まあ、喜ばせてやろうッて、内々で入れたんだそうで。ありゃ何ですッて、逢阪下《おうざかしも》の辻――ええ、天王寺に行《ゆ》く道です。公園寄の辻に、屋台にちょっと毛の生えたくらいの小さな店で、あんころ餅を売っている娘だそうです。いい娘《こ》ですね。」
 それは初阪がはじめて聞く。
「そう、餅屋の姉さんかい……そして何だぜ、あの芝居の厠《べんじょ》に番をしている、爺《じい》さんね、大どんつくを着た逞《たくま》しい親仁《おやじ》だが、影法師のように見える、太《ひど》く、よぼけた、」
「ええ、駕籠伝《かごでん》、駕籠屋の伝五郎ッて、新地の駕籠屋で、ありゃその昔鳴らした男です。もう年紀《とし》の上に、身体《からだ》を投げた無理が出て、便所の番をしています。その伝が?」
「娘の、爺さんか父親《おやじ》なんだ。」
 これは男衆が知らなかった。
「へい、」
「知らないのかい。」
「そうかも知れません、私《わっし》あ御存じの土地児《とちっこ》じゃないんですから、見たり、聞いたり、透切《すきぎれ》だらけで。へい、どうして、貴方?」
「ところが分った事がある。……何しろ、私が、昨夜《ゆうべ》、あの桟敷へ入った時、空いていた場所は、その私の処と、隣りに一間《ひとま》、」
「そうですよ。」
「その二間しかなかったんだ。二丁がカチと入った時さ。娘を連れて、年配の出方が一人、横手の通《とおり》の、竹格子だね、中座のは。……扉《
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