。
早や柵の上を蹌踉《よろ》めき越えて、虚空を掴《つか》んで探したのが、立直って、衝《つ》と寄った。
が、床几の前に、ぱったり倒れて、起直りざまの目の色は、口よりも血走った。
「ああ、待遠《まちどお》な、多一さん、」
と黒髪|揺《ゆら》ぐ、吐息《といき》と共に、男の肩に手を掛けた。
「毒には加減をしたけれど、私が先へ死にそうでな、幾たび目をば瞑《ねむ》ったやろ。やっとここまで堪《こら》えたえ。も一度顔を、と思うよって……」
丸官の握拳《にぎりこぶし》が、時に、瓦《かわら》の欠片《かけら》のごとく、群集を打ちのめして掻分《かきわ》ける。
「傘でかくしておくれやす。や、」と云う。
台傘が颯《さっ》と斜めになった。が、丸官の忿怒《ふんぬ》は遮り果てない。
靴足袋で青い足が、柵を踏んで乗ろうとするのを、一目見ると、懐中《ふところ》へ衝《つ》と手を入れて、両方へ振って、扱《しご》いて、投げた。既に袋を出ていた蛇は、二筋|電《いなずま》のごとく光って飛んだ。
わ、と立騒ぐ群集《ぐんじゅ》の中へ、丸官の影は揉込《もみこ》まれた。一人|渠《かれ》のみならず、もの見高く、推掛《おしかか》った両側の千人は、一斉に動揺《どよみ》を立て、悲鳴を揚げて、泣く、叫ぶ。茶屋|揚屋《あげや》の軒に余って、土足の泥波を店へ哄《どっ》と……津波の余残《なごり》は太左衛門橋、戒橋《えびすばし》、相生橋《あいおいばし》に溢《あふ》れかかり、畳屋町、笠屋町、玉屋町を横筋に渦巻き落ちる。
見よ、見よ、鴉が蔽《おお》いかかって、人の目、頭《かしら》に、嘴《はし》を鳴らすを。
お珊に詰寄る世話人は、また不思議にも、蛇が、蛇が、と遁惑《にげまど》うた。その数はただ二条《ふたすじ》ではない。
屋台から舞妓が一人|倒《さかさま》に落ちた。そこに、めらめらと鎌首を立て、這いかかったためである。
それ、怪我人よ、人死《ひとじに》よ、とそこもここも湧揚る。
お珊は、心|静《しずか》に多一を抱いた。
「よう、顔見せておくれやす。」
「口惜《くちおし》い。御寮人、」と、血を吐きながら頭《かぶり》を振る。
「貴方《あんた》ばかり殺しはせん。これお見やす、」と忘れたように、血が涸《か》れて、蒼白《あおじろ》んで、早や動かし得ぬ指を離すと、刻んだように。しっかと持った、その脈を刺した手の橘の、鮮血《からくれない
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