たた》って、底知れぬ谷暗く、風は梢《こずえ》に渡りつつ、水は蜘蛛手《くもで》に岨《そば》を走って、駕籠は縦になって、雲を仰ぐ。
 前棒《さきぼう》の親仁《おやじ》が、「この一山《ひとやま》の、見さっせえ、残らず栃《とち》の木の大木でゃ。皆|五抱《いつかか》え、七抱《ななかか》えじゃ。」「森々《しんしん》としたもんでがんしょうが。」と後棒《あとぼう》が言《ことば》を添える。「いかな日にも、はあ、真夏の炎天にも、この森で一度雨の降らぬ事はねえのでの。」清水の雫《しずく》かつ迫り、藍縞《あいじま》の袷《あわせ》の袖《そで》も、森林の陰に墨染《すみぞめ》して、襟《えり》はおのずから寒かった。――「加州家《かしゅうけ》の御先祖が、今の武生《たけふ》の城にござらしった時から、斧《おの》入れずでの。どういうものか、はい、御維新前まで、越前の中《うち》で、此処《ここ》一山《ひとやま》は、加賀《かが》領でござったよ――お前様、なつかしかんべい。」「いや、僕は些《ちっ》とでも早く東京へ行《ゆ》きたいんだよ。」「お若いで、えらい元気じゃの。……はいよ。」「おいよ。」と声を合わせて、道割《みちわれ》の小滝を飛んだ。
 私は駕籠の手に確《しか》と縋《すが》った。
 草に巨人の足跡の如き、沓形《くつがた》の峯の平地《ひらち》へ出た。巒々《らんらん》相迫《あいせま》った、かすかな空は、清朗にして、明碧《めいへき》である。
 山気《さんき》の中に優しい声して、「お掛けなさいましな。」軒は巌《いわ》を削れる如く、棟《むね》広く柱黒き峯の茶屋に、木の根のくりぬきの火鉢を据えて、畳《たたみ》二畳にも余りなん、大熊の皮を敷いた彼方《かなた》に、出迎えた、むすび髪の色白な若い娘は、唯《と》見ると活けるその熊の背に、片膝して腰を掛けた、奇《く》しき山媛《やまひめ》の風情《ふぜい》があった。
 袖も靡《なび》く。……山嵐|颯《さっ》として、白い雲は、その黒髪《くろかみ》の肩越《かたごし》に、裏座敷の崖の欄干《てすり》に掛って、水の落つる如く、千仭《せんじん》の谷へ流れた。
 その裏座敷に、二人一組、別に一人、一人は旅商人《たびあきゅうど》、二人は官吏らしい旅客がいて憩った。いずれも、柳《やな》ヶ瀬《せ》から、中の河内|越《ごえ》して、武生へ下《くだ》る途中なのである。
 横づけの駕籠を覗《のぞ》いて、親仁が、「
前へ 次へ
全6ページ中5ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング