梅水にかわったともいうが、いまにおいては審《つまびらか》でない。ただ不思議なのは、さばかりの容色《きりょう》で、その年まで、いまだ浮気、あらわに言えば、旦那があったうわさを聞かぬ。ほかは知らない、あのすなおな細い鼻と、口許がうそを言わぬ。――お誓さんは処女だろう……(しばらく)――これは小県銑吉の言うところである。
 十六か七の時、ただ一度――場所は築地だ、家は懐石、人も多いに、台所から出入りの牛乳屋《ちちや》の小僧が附ぶみをした事のあるのを、最も古くから、お誓を贔屓《ひいき》の年配者、あたまのきれいに兀《は》げた粋人が知っている。梅水の主人夫婦も、座興のように話をする。ゆらの戸の歌ではなけれど、この恋の行方は分らない。が、対手《あいて》が牛乳屋の小僧だけに、天使と牧童のお伽話《とぎばなし》を聞く気がする。ただその玉章《たまずさ》は、お誓の内証《ないしょ》の針箱にいまも秘めてあるらしい。……
「……一生の願《ねがい》に、見たいものですな。」
「お見せしましょうか。」
「恐らく不老長寿の薬になる――近頃はやる、性の補強剤に効能の増《まさ》ること万々だろう。」
「そうでしょうか。」
 その頬が、白く、涼しい。
「見せろよ。」
 低い声の澄んだ調子で、
「ほほほ。」
 と莞爾《にっこり》。
 その口許の左へ軽くしまるのを見るがいい。……座敷へ持出さないことは言うまでもない。
 色気の有無《ほど》が不可解である。ある種のうつくしいものは、神が惜《おし》んで人に与えない説がある。なるほどそういえば、一方円満柔和な婦人に、菩薩相《ぼさつそう》というのがある。続いて尼僧顔がないでもあるまい。それに対して、お誓の処女づくって、血の清澄明晰《せいしょうめいせき》な風情に、何となく上等の神巫《みこ》の麗女《たおやめ》の面影が立つ。
 ――われ知らず、銑吉のかくれた意識に、おのずから、毒虫の毒から救われた、うつくしい神巫《おみこ》の影が映るのであろう。――
 おお美わしのおとめよ、と賽銭《さいせん》に、二百金、現に三百金ほどを包んで、袖に呈《てい》するものさえある。が、お誓はいつも、そのままお帳場へ持って下って、おかみさんの前で、こんなもの。すぐ、おかみさんが、つッと出て、お給仕料は、お極《きま》りだけ御勘定の中に頂いてありますから。……これでは、玉の手を握ろう、紅《もみ》の袴《はかま》
前へ 次へ
全29ページ中24ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング