び》えていて、陰でも、退治《たいじ》るの、生捉《いけど》るのとは言い憚《はばか》ったものらしい。がまあ、この辺にそんなものが居るのかね。……運転手は笑っていたが、私は真面目さ。何でも、この山奥に大沼というのがある?……ありますか、お爺さん。」
「あるだ。」
 その時、この気軽そうな爺さんが、重たく点頭した。
「……阿武隈川が近いによって、阿武沼と、勿体《もったい》つけるで、国々で名高い、湖や、潟ほど、大いなものではねえだがなす、むかしから、それを逢魔沼《おうまぬま》と云うほどでの、樹木が森々《しんしん》として凄《すご》いでや、めったに人が行がねえもんだで、山奥々々というだがね。」
 と額を暗く俯向《うつむ》いた。が、煙管《きせる》を落して、門――いや、門も何もない、前通りの草の径《こみち》を、向うの原越しに、差覗《さしのぞ》くがごとく、指をさし、
「あの山を一つ背後《うしろ》へ越した処だで、沢山《たんと》遠い処ではねえが。」
 と言う。
 その向う山の頂に、杉|檜《ひのき》の森に包まれた、堂、社《やしろ》らしい一地がある。
「……途中でも、気が着いたが。」
 水の影でも映りそうに、その空なる樹《こ》の間《ま》は水色に澄んで青い。
「沼は、あの奥に当るのかね。」
「えへい、まあ、その辺の見当ずら。」
 と、掌をもじゃもじゃと振るのが、枯葉が乱れて、その頂の森を掻乱《かきみだ》すように見え、
「何かね、その赤い化もの……」
「赤いのが化けものじゃあない――お爺さん。」
「はあ、そうけえ。」
 と妙に気の抜けた返事をする。
「……だから、私が――じゃあ、その阿武沼、逢魔沼か。そこへ、あの連中は行ったんだろうか、沼には変った……何か、可恐《おそろし》い、可怪《あやし》い事でもあるのかね。饂飩酒場の女房が、いいえ、沼には牛鬼が居るとも、大蛇《おろち》が出るとも、そんな風説《うわさ》は近頃では聞きませんが、いやな事は、このさきの街道――畷《なわて》の中にあった、というんだよ。寺の前を通る道は、古い水戸街道なんだそうだね。」
「はあ、そうでなす。」
「ぬかるみを目の前にして……さあ、出掛けよう。で、ここへ私が来る道だ。何が出ようとこの真昼間《まっぴるま》、気にはしないが、もの好きに、どんな可恐《おそろし》い事があったと聞くと、女給と顔を見合わせてね、旦那《だんな》、殿方には何でも
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