叱らない?
早瀬 …………
お蔦 叱ったって、もう買ったんだから構わない、(風呂敷より紙づつみを出す)髷形《まげがた》よ、円髷《まるまげ》の。仲町に評判な内があるんですわ。
早瀬 髷形を、お蔦。(思わずそのつつみに手を掛く)俺《おれ》の位牌《いはい》でも買や可《い》いのに。
お蔦 まあ、お位牌はちゃんと飾って、貴方のおふた親に、お気に入らないかも知れないけれど、私ゃ、私ばかりは嫁の気で、届かぬながら、朝晩おもりをしていますわ。
早瀬 樹から落ちた俺の身体《からだ》だ。……優しい嫁の孝行で、はじめて戒名が出来たくらいだ。俺は勘当されたッて。……何をお前、両親がお前に不足があるものか。――位牌と云うのは俺の位牌だ。――
お蔦 ええ。
早瀬 お蔦、もう俺ゃ死んだ気になって、お前に話したい事がある。
お蔦 (聞くと斉《ひと》しく慌《あわただ》しく両手にて両方の耳を蔽《おお》う。)
早瀬 ちょっと、もう一度掛けてくれ。
お蔦 (ものも言わず、頭をふる。)
早瀬 よ。(と胸に手を当て、おそうとして、火に触れたるがごとく、ツト手を引く)死ぬ気になって、と聞いたばかりで、動悸《どうき》はどうだ、震えている。稲妻を浴びせたように……可哀相《かわいそう》に……チョッいっそ二人で巡礼でも。……いやいや先生に誓った上は。――ええ、俺は困った。どうしよう。(倒るるがごとくベンチにうつむく。)
お蔦 (見て、優しく擦寄る)聞かして下さい、聞かして下さい、私ゃ心配で身体《からだ》がすくむ。(と忙《せわ》しく)早く聞かして下さいな。(と静《しずか》に云う。)
早瀬 俺が死んだと思って聞けよ。
お蔦 可厭《いや》。(烈《はげ》しく再び耳を圧《おさ》う)何を聞くのか知らないけれど、貴下《あなた》この二三日の様子じゃ、雷様より私は可恐《こわ》いよ。
早瀬 (肩に手を置く)やあ、ほんとに、わなわな震えて。
お蔦 ええ、たとい弱くッて震えても、貴方の身替りに死ねとでも云うんなら、喜んで聞いてあげます。貴方が死んだつもりだなんて、私ゃ死ぬまで聞きませんよ。
早瀬 おお、お前も殺さん、俺も死なない、が聞いてくれ。
お蔦 そんなら、……でも、可恐《こわ》いから、目を瞑《ふさ》いで。
早瀬 お蔦。
お蔦 …………
早瀬 俺とこれッきり別れるんだ。
お蔦 ええ。
早瀬 思切って別れてくれ。
お蔦 早瀬さん。
早瀬 …………
お蔦 串戯《じょうだん》じゃ、――貴方、なさそうねえ。
早瀬 洒落《しゃれ》や串戯で、こ、こんな事が。俺は夢になれと思っている。
[#ここから1字下げ、折り返して2字下げ]
※[#歌記号、1−3−28]跡には二人さし合《あい》も、涙|拭《ぬぐ》うて三千歳が、恨めしそうに顔を見て、
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
お蔦 ほんとうなのねえ。
早瀬 俺があやまる、頭を下げるよ。
お蔦 切れるの別れるのッて、そんな事は、芸者の時に云うものよ。……私にゃ死ねと云って下さい。蔦には枯れろ、とおっしゃいましな。
[#ここから2字下げ]
ツンとしてそがいになる。
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
早瀬 お蔦、お蔦、俺は決して薄情じゃない。
お蔦 ええ、薄情とは思いません。
早瀬 誓ってお前を厭《あ》きはしない。
お蔦 ええ、厭かれて堪《たま》るもんですか。
早瀬 こっちを向いて、まあ、聞きなよ。他《ほか》に何も鬱《ふさ》ぐ事はない、この二三日、顔を色を怪《あやし》まれる、屈託はこの事だ。今も言おう、この時言おう、口へ出そうと思っても、朝、目を覚《さま》せば俺より前に、台所《だいどころ》でおかかを掻く音、夜寝る時は俺よりあとに、あかりの下で針仕事。心配そうに煙管《きせる》を支《つ》いて、考えると見ればお菜《かず》の献立、味噌漉《みそこし》で豆腐を買う後姿を見るにつけ、位牌の前へお茶湯《ちゃとう》して、合せる手を見るにつけ、咽喉《のど》を切っても、胸を裂いても、唇を破っても、分れてくれとは言えなかった。先刻《さっき》も先刻、今も今、優しいこと、嬉しいこと、可愛いことを聞くにつけ、云おう云おうと胸を衝くのは、罪も報いも無いものを背後《うしろ》からだまし打《うち》に、岩か玄翁《げんのう》でその身体《からだ》を打砕くような思いがして、俺は冷汗に血が交った。な、こんな思《おもい》をするんだもの、よくせきな事だと断念《あきら》めて、きれると承知をしてくんな。……お前に、そんなに拗《す》ねられては、俺は活《い》きてる空はない。
お蔦 ですから、死ねとおっしゃいよ。切れろ、別れろ、と云うから可厭《いや》なの。死ねなら、あい、と云いますわ。私ゃ生命《いのち》は惜《おし》くはない。
早瀬 さあ、その生命に、俺の生命を、二つ合せても足りないほどな、大事な方を知っているか。お前が神仏《かみほとけ》を念ずるにも、まず第一に拝むと云った、その言葉が嘘でなければ、言わずとも分るだろう。そのお方のいいつけなんだ。
お蔦 (消ゆるがごとく崩折《くずお》れる)ええ、それじゃ、貴方の心でなく、別れろ、とおっしゃるのは、真砂町の先生の。(と茫然《ぼうぜん》とす。)
早瀬 己《おれ》は死ぬにも死なれない。(身を悶《もだ》ゆ。)
お蔦 (はっと泣いて、早瀬に縋《すが》る。)
[#ここから1字下げ、折り返して2字下げ]
※[#歌記号、1−3−28]一日逢わねば、千日の思いにわたしゃ煩うて、針や薬のしるしさえ、泣《なき》の涙に紙濡らし、枕を結ぶ夢さめて、いとど思いのますかがみ。
[#ここから2字下げ]
この間に、早瀬、ベンチを立つ、お蔦縋るようにあとにつき、双方涙の目に月を仰ぎながら徐《しずか》にベンチを一周す。お蔦さきに腰を落し、立てる早瀬の袂《たもと》を控う。
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
お蔦 あきらめられない、もう一度、泣いてお膝に縋っても、是非もしようもないのでしょうか。
早瀬 実は柏家《かしわや》の奥座敷で、胸に匕首《あいくち》を刺されるような、御意見を被《こうむ》った。小芳《こよし》さんも、蒼《あお》くなって涙を流して、とりなしてくんなすったが、たとい泣いても縋っても、こがれ死《じに》をしても構わん、おれの命令だ、とおっしゃってな、二の句は続かん、小芳さんも、俺も畳へ倒れたよ。
お蔦 (やや気色《けしき》ばむ)まあ、死んでも構わないと、あの、ええ、死ぬまいとお思いなすって、……小芳さんの生命《いのち》を懸けた、わけしりでいて、水臭い、芸者の真《まこと》を御存じない! 私死にます、柳橋の蔦吉は男に焦《こが》れて死んで見せるわ。
早瀬 これ、飛んでもない、お前は、血相変えて、勿体《もったい》ない、意地で先生に楯《たて》を突く気か。俺がさせない。待て、落着いて聞けと云うに!――死んでも構わないとおっしゃったのは、先生だけれど、……お前と切れる、女を棄てます、と誓ったのは、この俺だが、どうするえ。
お蔦 貴方をどうするって、そんな無理なことばッかり、情があるなら、実があるなら、先生のそうおっしゃった時、なぜ推返《おしかえ》して出来ないまでも、私の心を、先生におっしゃってみては下さいません。
早瀬 血を吐く思いで俺も云った。小芳さんも、傍《そば》で聞く俺が極《きま》りの悪いほど、お前の心を取次いでくれたけれど、――四の五の云うな、一も二もない――俺を棄てるか、婦《おんな》を棄てるか、さあ、どうだ――と胸つきつけて言われたには、何とも返す言葉がなかった。今もって、いや、尽未来際《じんみらいざい》、俺は何とも、他《ほか》に言うべき言葉を知らん。
お蔦 (間)ああ、分りました。それで、あの、その時に、お前さん、女を棄てます、と云ったんだわね。
早瀬 堪忍しておくれ、済まない、が、確《たしか》に誓った。
お蔦 よく、おっしゃった、男ですわ。女房の私も嬉しい。早瀬さん、男は……それで立ちました。
早瀬 立つも立たぬも、お前一つだ。じゃ肯分《ききわ》けてくれるんだね。
お蔦 肯分けないでどうしましょう。
早瀬 それじゃ別れてくれるんだな。
お蔦 ですけれど……やっぱり私の早瀬さん、それだからなお未練が出るじゃありませんか。
早瀬 また、そんな無理を言う。
お蔦 どッちが、無理だと思うんですよ。
早瀬 じゃお前、私がこれだけ事を分けて頼むのに、肯入れちゃくれんのかい。
お蔦 いいえ。
早瀬 それじゃ一言、清く別れると云ってくんなよ。
お蔦 …………
早瀬 ええ、お蔦。(あせる。)
お蔦 いいますよ。(きれぎれに且つ涙)別れる切れると云う前に、夫婦で、も一度顔が見たい。(胸に縋《すが》って、顔を見合わす。)
[#ここから1字下げ、折り返して2字下げ]
※[#歌記号、1−3−28]見る度ごとに面痩《おもや》せて、どうせながらえいられねば、殺して行ってくださんせ。
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
お蔦 見納めかねえ――それじゃ、お別れ申します。
早瀬 (涙を払い、気を替う)さあ、ここに金子《かね》がある、……下すったんだ、受取っておいておくれ。(渡す。)
お蔦 (取ると斉《ひと》しく)手切れかい、失礼な、(と擲《なげう》たんとして、腕の萎《な》えたる状《さま》)あの、先生が下すったんですか。
早瀬 まだ借金も残っていよう、当座の小使いにもするように、とお心づけ下すったんだ。
お蔦 (しおしおと押頂く)こうした時の気が乱れて、勿体ない事をしようとした、そんなら私、わざと頂いておきますよ。(と帯に納めて、落したる髷形《まげがた》の包に目を注ぐ。じっと泣きつつ拾取って砂を払う)も、荷になってなぜか重い。打棄《うっちゃ》って行きたいけれど、それでは拗《す》ねるに当るから。
早瀬 で、お前はどうする。
お蔦 私より貴方は……そうね、お源坊が実体《じってい》に働きますから、当分我慢が出来ましょう。私……もう、やがて、船の胡瓜《きゅうり》も出るし、お前さんの好きなお香々《こうこう》をおいしくして食べさせて誉《ほ》められようと思ったけれど、……ああ何も言うのも愚痴《ぐち》らしい。あの、それよりか、お前さんは私にばかり我ままを云う癖に、遠慮深くって女中にも用はいいつけ得ないんだもの。……これからはね、思うように用をさして、不自由をなさいますな。……寝冷《ねびえ》をしては不可《いけ》ませんよ。私、山百合を買って来て、早く咲くのを見ようと思って、莟《つぼみ》を吹いて、ふくらましていたんですよ、水を遣《や》って下さいな……それから。
早瀬 (うつむいて頷《うなず》いてのみいる、堪《たま》りかねて)俺も世帯を持っちゃいないよ。お前にわかれて、何の洒落《しゃれ》に。
お蔦 まあ、どうして。
早瀬 それでなくッてさえ、掏賊《すり》の同類だ、あいずりだと、新聞で囃《はや》されて、そこらに、のめのめ居られるものか。長屋は藻《も》ぬけて、静岡へ駈落《かけおち》だ。少し考えた事もあるし、当分|引込《ひっこ》んでいようと思う。
お蔦 遠いわねえ。静岡ッて箱根のもッと先ですか。貴方がここに待っていて、石段を下りたばかりでさえ、気が急《せ》いてならなかったに、またいつ、お目にかかれるやら。(と膝にうつむく。)
早瀬 お蔦、お前は、それだから案じられる。忘れても一人でなんぞ、江戸の土を離れるな。静岡は箱根より遠いかは心細い。……ああ、親はなし、兄弟はなし、伯父叔母というものもなし、俺ばっかりをたよりにしたのに、せめて、従兄妹《いとこ》が一人ありゃ、俺は、こんな思いはしやしない!……よう、お蔦、そしてお前は当分どうするつもりだ。
お蔦 (顔を上ぐ)貴方こそ、水がわり、たべものに気をつけて下さいよ。私の事はそんなに案じないが可《よ》うござんす。小児《こども》の時から髪を結うのが好きで、商売をやめてから、御存じの通り、銀杏返《いちょうがえ》しなら人の手はかりませんし、お源の島田の真似もします。慰みに、お酌《しゃく》さんの桃割《ももわれ》なんか、お世辞にも誉《ほ》めら
前へ 次へ
全3ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング