湯島の境内
泉鏡花

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)冴《さ》返る

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)早瀬|主税《ちから》

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#歌記号、1−3−28]
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     湯島の境内 (婦系図―戯曲―一齣)

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※[#歌記号、1−3−28]|冴《さ》返る春の寒さに降る雨も、暮れていつしか雪となり、
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仮声使《こわいろつかい》、両名、登場。
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※[#歌記号、1−3−28]上野の鐘の音《ね》も氷る細き流れの幾曲《いくまがり》、すえは田川に入谷村《いりやむら》、
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その仮声使、料理屋の門《かど》に立ち随意に仮色を使って帰る。
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※[#歌記号、1−3−28]|廓《くるわ》へ近き畦道《あぜみち》も、右か左か白妙《しろたえ》に、
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この間に早瀬|主税《ちから》、お蔦《つた》とともに仮色使と行逢《ゆきあ》いつつ、登場。
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※[#歌記号、1−3−28]|往来《ゆきき》のなきを幸《さいわい》に、人目を忍び彳《たたず》みて、
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仮色使の退場する時、早瀬お蔦と立留《たちどま》る。
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お蔦 貴方《あなた》……貴方。
早瀬 ああ。(と驚いたように返事する。)
お蔦 いい、月だわね。
早瀬 そうかい。
お蔦 御覧なさいな、この景色を。
早瀬 ああ、成程。
お蔦 可厭《いや》だ、はじめて気が付いたように、貴方、どうかしているんだわ。
早瀬 どうかもしていようよ。月は晴れても心は暗闇《やみ》だ。
お蔦 ええ、そりゃ、世間も暗闇でも構いませんわ。どうせ日蔭の身体《からだ》ですもの。……
早瀬 お蔦。(とあらたまる。)
お蔦 あい。
早瀬 済まないな、今更ながら。
お蔦 水臭い、貴方は。……初手《しょて》から覚悟じゃありませんか、ねえ。内証だって夫婦ですもの。私、苦労が楽《たのし》みよ。月も雪もありゃしません。(四辺《あたり》を※[#「目+句」、第4水準2−81−91]《みまわ》す)ちょいとお花見をして行《ゆ》きましょうよ。……誰も居ない。腰を掛けて、よ。(と肩に軽く手を掛ける。)
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※[#歌記号、1−3−28]|慥《たしか》にここと見覚えの門の扉《とぼそ》に立寄れば、(早瀬、引かれてあとずさりに、一脚のベンチに憩う。)
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お蔦 (並んで掛けて、嬉しそうに膝に手を置く)感心でしょう。私も素人になったわね。
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※[#歌記号、1−3−28]風に鳴子《なるこ》の音高く、
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時に、ようようと蔭にて二三人、ハタハタと拍手の音。
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お蔦 (肩を離す)でも不思議じゃありませんか。
早瀬 何、月夜がかい。
お蔦 まあ、いくら二人が内証だって、世帯を持てば、雨が漏っても月が射《さ》すわ。月夜に不思議はないけれど、こうして一所におまいりに来た事なのよ。
早瀬 そうさな、不思議と云えば不思議だよ、世の中の事は分らないものだからな。
お蔦 急に雪でも降らなけりゃ可《い》い。
早瀬 (懸念して)え、なぜだ。
お蔦 だって、ついぞ一所に連れて出てくれた事が無かったじゃありませんか。珍しいんだもの。
早瀬 …………
お蔦 ねえ、貴方、私やっぱり、亡くなった親の情《なさけ》が貴方に乗憑《のりうつ》ったんだろうとそう思いますわ。……こうして月夜になったけれど、今日お午《ひる》過ぎには暗く曇って、おつけ晴れて出られない身体《からだ》にはちょうど可《い》い空合いでしたから、貴方の留守に、お母《っか》さんのお墓まいりをしたんですよ。……飯田町《いいだまち》へ行ってから、はじめてなんですもの。身がかたまって、生命《いのち》がけの願《ねがい》が叶《かな》って、容子《ようす》の可い男を持った、お蔦はあやかりものだって、そう云ってね、お母《っか》さんがお墓の中から、貴方によろしく申しましたよ。邪険なようで、可愛がって、ほうり放しで、行届いて。
早瀬 お蔦。
お蔦 でも、偶《たま》には一所に連れて出て下さいまし。夫婦《いっしょ》になると気抜《きぬけ》がして、意地も張《はり》もなくなって、ただ附着《くッつ》いていたがって、困った田舎嫁でございます。江戸は本郷も珍しくって見物がしたくってなりません。――そうお母《っか》さんがことづけをしたわ。……何だかこの二三日、鬱込《ふさぎこ》んでいらっしゃるから、貴方の氏神様もおんなじ、天神様へおまいりをなさいまし、私も一所にッて、とても不可《いけ》ないと思って強請《ねだ》ったら、こうして連れて来てくれたんですもの。草葉の蔭でもどんなに喜んでいるか知れませんよ。
早瀬 堪忍しな。嘘にも誉《ほ》められたり、嬉しがられたりしたのは、私は昨日《きのう》、一昨日《おととい》までだ、と思っているんだ。(嘆息す。)
お蔦 何だねえ、気の弱い。掏賊《すり》の手伝いをしたッて、新聞に出されて、……自分でお役所を辞職した事なんでしょう。私が云うと、月給が取れなくなったのを気にするようで口惜《くや》しいから、何にも口へは出さなかったけれど、貴方、この間から鬱《ふさ》いでいるのはその事でしょう。可《い》いじゃありませんか。蹈《ふ》んだり蹴《け》たりされるのを見ちゃ、掏賊だって助けまいものでもない、そこが男よ。ええ、私だって柳橋に居りゃ助けるわ。それが悪けりゃ世間様、勝手になさいな。またお役所の事なんか、お墓のお母《っか》さんもそう云いました。蔦がどんな苦労でも楽《たのし》みにしますから、お世帯向は決《け》して御心配なさいますなって、……云ってましたよ。
早瀬 難有《ありがた》い、俺《おい》ら嬉しいぜ。
お蔦 女房に礼を云う人がありますか。ほんとうにどうかしているんだよ。
早瀬 馬鹿な。お前のお母《っか》さんに礼を云うのよ。しかし世帯の事なんか、ちっとも心配しているんじゃない。
お蔦 じゃ何を鬱ぐんですよ。
早瀬 何という事はない、が、月を見な、時々雲も懸《かか》るだろう。星ほどにも無い人間だ。ふっと暗闇《やみ》にもなろうじゃないか。……いや、家内安全の祈祷《きとう》は身勝手、御不沙汰《ごぶさた》の御機嫌うかがいにおまいりしながら、愚痴《ぐち》を云ってちゃ境内で相済まない。……さあ、そろそろ帰ろう。(立ちかける。)
お蔦 (引添いつつ)ああ、ちょっと、待って下さいな。
早瀬 何だ。
お蔦 あの、私は巳年《みどし》で、かねて、弁天様が信心なんです。……ここまで来て御不沙汰をしては気が済まないから、石段の下までも行って拝んで来たいんですから、貴方、ちょっとの間《ま》よ、待っていて下さいな。
早瀬 ああ、行くが可《い》い、ついで、と云っては失礼だが、お前|不忍《しのばず》まで行ってはどうだ。一所に行こうよ。
お蔦 まあ、珍しい。貴方の方で一所なんて、不思議だわね。(顔を見る)でも、悪い方へ不思議なんじゃないから私は嬉しい。ですがね、弁天様は一所は悪いの。それだしね、私貴方に内証《ないしょ》々々で、ちょっと買って来たいものがありますから。
早瀬 お心まかせになさるが可《い》い。
お蔦 いやに優しいわね。よしましょうか、私、……よそうかしら。
早瀬 なぜ、他《ほか》の事とは違う、信心ごとを止《よ》しちゃ不可《いけ》ない。
お蔦 でも、貴方が寂しそうだもの。何だか災難でもかかるんじゃないかと思って、私気になって仕ようが無い。
早瀬 詰《つま》らん事を。災難なんか張倒す。
お蔦 おお、出来《でか》した、宿のおまえさん。
早瀬 お茶屋じゃない。場所がらを知らないかい。
お蔦 嬉しい、久しぶりで叱られた。だけれど、声に力がないねえ。(とまた案ずる。)
早瀬 早く行って来ないかよ。
お蔦 あいよ。そうそう、鬱陶《うっとう》しいからって、貴方が脱いだ外套《がいとう》をここに置きますよ。夜露がかかる、着た方が可《い》いわ。
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※[#歌記号、1−3−28]気転きかして奥と口。
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お蔦 (拍手《かしわで》うつ。)
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天神様、天神様。
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早瀬 何だ、ぶしつけな。
お蔦 (それには答えず)やどをお頼み申上げます。
早瀬 (ほろりと泣く。)
お蔦 (行《ゆ》きかけつつ)貴方、見ていて下さいな、石段を下りるまで、私一人じゃ可恐《こわ》いんですもの。
早瀬 それ見ろ、弱虫。人の事を云う癖に。何だ、下谷《したや》上野の一人あるきが出来ない娘じゃないじゃないか。
お蔦 そりゃ褄《つま》を取ってりゃ、鬼が来ても可《い》いけれども、今じゃ按摩《あんま》も可恐《こわ》いんだもの。
早瀬 可《よ》し、大きな目を開《あ》いて見ていてやる。大丈夫だ、早く行《ゆ》きなよ。
お蔦 あい。
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※[#歌記号、1−3−28]互に心合鍵に、
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早瀬見送る。――お蔦|行《ゆ》く。――
…………………………
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※[#歌記号、1−3−28]はれて逢われぬ恋仲に、人に心を奥の間より、しらせ嬉しく三千歳《みちとせ》が、
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このうたいっぱいに、お蔦急ぎあしに引返す。
早瀬、腕を拱《こまぬ》きものおもいに沈む。
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お蔦 (うしろより)貴方、今帰ってよ。兄さん。
早瀬 ああ。
お蔦 私は……こっちよ。
早瀬 おお早かったな。
お蔦 いいえ、お待遠さま。……私、何だか、案じられて気が急《せ》いて、貴方、ちょっと顔を見せて頂戴(背ける顔を目にして縋《すが》る)ああ(嬉しそうに)久しぶりで逢ったようよ。(さし覗《のぞ》く)どうしたの。やはり屈託そうな顔をして。――こうやって一所に来たのは嬉しいけれど、しつけない事して、――天神様のお傍《そば》はよし、ここを離れて途中でまた、魔がさすと不可《いけ》ません。急いで電車で帰りましょう。
早瀬 お前、せいせい云って、ちと休むが可《い》い。
お蔦 もう沢山。
早瀬 おまいりをして来たかい。
お蔦 ええ、仲町《なかちょう》の角から、(軽く合掌す)手を合せて。
早瀬 何と云ってさ。
お蔦 まあ、そんな事。
早瀬 聞きたいんだよ。
お蔦 ええ、話すわ。貴方に御両親はありません、その御両親とも、お主とも思います。貴方の大事なお師匠さま、真砂町《まさごちょう》の先生、奥様、お二方を第一に、御機嫌よう、お達者なよう。そして、可愛いお嬢さんが、決《け》して決して河野《こうの》なんかと御縁組なさいませんよう。
早瀬 それから。
お蔦 それから?
早瀬 それから、……
お蔦 だって、あとは分ってるじゃありませんかね。ほほほほ。
早瀬 (ともに寂しく笑う)ははは、で、何を買って来たんだい、買いものは。
お蔦 (無邪気に莞爾々々《にこにこ》しつつ)いいもの、……でも、お前さんには気に入らないもの、それでも、気に入らせないじゃおかないもの、嬉しいもの、憎いもの、ちょっと極《きま》りの悪いもの。
早瀬 何だよ、何だよ。
お蔦 ああ、悪かった。……坊やはお土産を待っていたんだよ。そんなら、何か買って上げりゃ可《よ》かった。……堪忍おしよ。いい児《こ》だねえ。
早瀬 可《い》いから、何を買ったんだよ。
お蔦 見せましょうか、
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