、大事な方を知っているか。お前が神仏《かみほとけ》を念ずるにも、まず第一に拝むと云った、その言葉が嘘でなければ、言わずとも分るだろう。そのお方のいいつけなんだ。
お蔦 (消ゆるがごとく崩折《くずお》れる)ええ、それじゃ、貴方の心でなく、別れろ、とおっしゃるのは、真砂町の先生の。(と茫然《ぼうぜん》とす。)
早瀬 己《おれ》は死ぬにも死なれない。(身を悶《もだ》ゆ。)
お蔦 (はっと泣いて、早瀬に縋《すが》る。)
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※[#歌記号、1−3−28]一日逢わねば、千日の思いにわたしゃ煩うて、針や薬のしるしさえ、泣《なき》の涙に紙濡らし、枕を結ぶ夢さめて、いとど思いのますかがみ。
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この間に、早瀬、ベンチを立つ、お蔦縋るようにあとにつき、双方涙の目に月を仰ぎながら徐《しずか》にベンチを一周す。お蔦さきに腰を落し、立てる早瀬の袂《たもと》を控う。
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お蔦 あきらめられない、もう一度、泣いてお膝に縋っても、是非もしようもないのでしょうか。
早瀬 実は柏家《かしわや》の奥座敷で、胸に匕首《あいくち》を刺されるような、御意見を被《こうむ》った。小芳《こよし》さんも、蒼《あお》くなって涙を流して、とりなしてくんなすったが、たとい泣いても縋っても、こがれ死《じに》をしても構わん、おれの命令だ、とおっしゃってな、二の句は続かん、小芳さんも、俺も畳へ倒れたよ。
お蔦 (やや気色《けしき》ばむ)まあ、死んでも構わないと、あの、ええ、死ぬまいとお思いなすって、……小芳さんの生命《いのち》を懸けた、わけしりでいて、水臭い、芸者の真《まこと》を御存じない! 私死にます、柳橋の蔦吉は男に焦《こが》れて死んで見せるわ。
早瀬 これ、飛んでもない、お前は、血相変えて、勿体《もったい》ない、意地で先生に楯《たて》を突く気か。俺がさせない。待て、落着いて聞けと云うに!――死んでも構わないとおっしゃったのは、先生だけれど、……お前と切れる、女を棄てます、と誓ったのは、この俺だが、どうするえ。
お蔦 貴方をどうするって、そんな無理なことばッかり、情があるなら、実があるなら、先生のそうおっしゃった時、なぜ推返《おしかえ》して出来ないまでも、私の心を、先生におっしゃってみては下さいませ
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