、お雪の背中へ額を着けて、夜の明くるのをただ、一刻千秋の思《おもい》で待構えまする内に疲れたせいか、我にもあらずそろそろと睡《まどろ》みましたと見えて、目が覚めると、月の夜《よ》は変り、山の端《は》に晴々しい旭《あさひ》、草木の露は金色《こんじき》を鏤《ちりば》めておりました。
密《そっ》と膝から下すと、お雪はやはりそのままに、すやすやと寐入《ねい》っている。
「お早うございます。」
と声を懸けて、機嫌聞きに亭主が真先《まっさき》、百万遍さえ止《や》みますれば、この親仁《おやじ》大元気で、やがてお鉄も参り、
「お客様お早うございます。」
十九
小宮山は早速|嗽《うがい》手水《ちょうず》を致して心持もさっぱりしましたが、右左から亭主、女共が問い懸けまする昨晩の様子は、いや、ただお雪がちょいと魘《うな》されたばかりだと言って、仔細《しさい》は明しませんでございました、これは後《のち》の事を慮《きづか》って、皆が恐れげなくお雪の介抱をしてやる事が出来るようにと、気を着けたのでありまする。
お雪の病気を復《なお》すにも怪しいものを退治るにも、耆婆扁鵲《きばへんじゃく》に及ばず、宮本武蔵、岩見重太郎にも及ばず、ただ篠田の心一つであると悟りましたので、まだ、二日三日も居て介抱もしてやりたかったのではありますけれども、小宮山は自分の力では及ばない事を知り、何よりもまず篠田に逢ってと、こう存じましたので、急がぬ旅ながら早速出立を致しました。
その柏屋を立ちまする時も、お雪はまだ昨夜《ゆうべ》のまま寝ていたのでありまする。失礼な起しましょうと口々に騒ぐを制して、朝餉《あさげ》も別間において認《したた》め、お前さん方が何も恐《こわ》がる程の事はないのだから、大勢側に附いて看病をしておやんなさいと、暮々も申し残して後髪を引かれながら。
その日、糸魚川から汽船に乗って、直江津に着きました晩、小宮山は夷屋《えびすや》と云う本町の旅籠屋に泊りました、宵の口は何事も無かったのでありまするが、真夜中にふと同じ衾《しとね》にお雪の寝ているのを、歴々《ありあり》と見ましたので、喫驚《びっくり》する途端に、寝姿が向《むこう》むきになったその櫛巻が溢《こぼ》れて、畳の上へざらりという音。
枕に着かるるどころではありませぬ、ああ越中と越後と国は変っても、女の念《おもい》は離れ
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