子へ、ばたりと留《とま》った。これは、これは、全くおいでなすったか知らんと、屹《きっ》と見まする、黒い人魂に羽が生えて、耳が出来た、明《あきら》かに認めましたのは、ちょいと鳶《とび》くらいはあろうという、大きな蝙蝠《こうもり》であります。
 そいつが羽撃《はばたき》をして、ぐるりぐるりと障子に打附《ぶッつ》かって這《は》い廻る様子、その動くに従うて、部屋の中の燈火《ともしび》が、明《あかる》くなり暗くなるのも、思いなし心持のせいでありましょうか。
 さては随筆に飛騨《ひだ》、信州などの山近な片田舎に、宿を借る旅人が、病もなく一晩の内に息の根が止《とま》る事がしばしば有る、それは方言|飛縁魔《ひのえんま》と称《とな》え、蝙蝠に似た嘴《くちばし》の尖《とんが》った異形なものが、長襦袢を着て扱帯《しごき》を纏《まと》い、旅人の目には妖艶《あでやか》な女と見えて、寝ているものの懐へ入《い》り、嘴を開けると、上下《うえした》で、口、鼻を蔽《おお》い、寐息を吸って吸殺すがためだとございまする。あらぬか、それか、何にしても妙ではない、かようなものを間の内へ入れてはならずと、小宮山は思案をしながら、片隅を五寸か一尺、開けるが早いか飛込んで、くるりと廻って、ぴしゃりと閉め、合せ目を押え附けて、どっこいと踏張《ふんば》ったのでありまする。しばらく、しっかりと押え附けて、様子を窺《うかが》っておりましたが、それきり物音もしませぬので、まず可《よ》かったと息を吐《つ》き、これから静《しずか》に衾《しとね》の方を向きますると、あにはからんやその蝙蝠は座敷の中をふわりふわり。
 南無三宝《なむさんぽう》と呆気《あっけ》に取られて、目を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》った鼻っ先を、件《くだん》の蝙蝠は横撫《よこなで》に一つ、ばさりと当てて向《むこう》へ飛んだ。
 何様猫が冷たい処をこすられた時は、小宮山がその時の心持でありましょう。
 嚔《くしゃみ》もならず、苦り切って衝立《つッた》っておりますると、蝙蝠は翼を返して、斜《ななめ》に低う夜着の綴糸《とじいと》も震うばかり、何も知らないですやすやと寐ている、お雪の寝姿の周囲《ぐるり》をば、ぐるり、ぐるり、ぐるりと三度。縫って廻られるたびに、ううむ、ううむ、うむと幽《かすか》に呻《うめ》いたと、見るが否や、萎《しお》れ伏したる女郎花
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