手を挙げれば、鉄道馬車が停《とま》るではなかろうか、も一つその上に笛を添えて、片手をあげて吹鳴らす事になりますと、停車場《ステイション》を汽車が出ますよ、使い処、用い処に因っては、これが人命にも関われば、喜怒哀楽の情も動かします。これをでかばちに申したら、国家の安危に係《かか》わるような、機会《おり》がないとも限らぬ、その拇指、その小指、その片手の働きで。
しかるをいわんや臨兵闘者皆陣列在前《りんびょうとうしゃかいじんれつざいぜん》といい、令百由旬内無諸哀艱《りょうひゃくゆじゅんないむしょあいげん》と唱えて、四縦五行の九字を切るにおいては、いかばかり不思議の働《はたらき》をするかも計られまい、と申したということを聞いたのであります。
いや、余事を申上げまして恐入りますが、唯今《ただいま》私が不束《ふつつか》に演じまするお話の中頃に、山中|孤家《ひとつや》の怪しい婦人《おんな》が、ちちんぷいぷい御代《ごよ》の御宝《おんたから》と唱えて蝙蝠《こうもり》の印を結ぶ処がありますから、ちょっと申上げておくのであります。
さてこれは小宮山《こみやま》良介という学生が、一《ある》夏北陸道を漫遊しました時、越中の国の小川という温泉から湯女《ゆな》の魂を託《ことづか》って、遥々《はるばる》東京まで持って参ったというお話。
越中に泊《とまり》と云って、家数千軒ばかり、ちょっと繁昌《はんじょう》な町があります。伏木《ふしき》から汽船に乗りますと、富山の岩瀬、四日市、魚津、泊となって、それから糸魚川《いといがわ》、関《せき》、親不知《おやしらず》、五智を通って、直江津へ出るのであります。
小宮山はその日、富山を朝立《あさだち》、この泊の町に着いたのは、午後三時半頃。繁昌な処と申しながら、街道が一条《ひとすじ》海に添っておりますばかり、裏町、横町などと、謂《い》ってもないのであります、その町の半《なかば》頃のと有る茶店へ、草臥《くたび》れた足を休めました。
二
渋茶を喫しながら、四辺《あたり》を見る。街道の景色、また格別でございまして、今は駅路の鈴の音こそ聞えませぬが、馬、車、処の人々、本願寺|詣《もうで》の行者の類、これに豆腐屋、魚屋、郵便配達などが交《まじ》って往来引きも切らず、「早稲《わせ》の香や別け入る右は有磯海《ありそうみ》」という芭蕉の句も、この辺《
前へ
次へ
全35ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング