も無いとも考えたから。
 お前さんどうしたんですッて。」
「まあ、御深切に、」と、話に聞惚《ききと》れたお若は、不意に口へ出した、心の声。
「傍《そば》へ寄って見ると、案の定、跣足《はだし》で居る、実に乱次《しどけ》ない風で、長襦袢《ながじゅばん》に扱帯《しごき》をしめたッきり、鼠色の上着を合せて、兵庫という髪が判然《はっきり》見えた、それもばさばさして今寝床から出たという姿だから、私は知らないけれども疑う処はない、勤人《つとめにん》だ。
 脊の高いね、恐しいほど品の好《い》い遊女《おいらん》だったッけ。」

       二十

「その婦人《おんな》に頼まれたんです。姉さん、」と謂いかけて、美しい顔をまともに屹《きっ》と女《むすめ》に向けた。
 お若は晴々しそうに、ちょいと背けて、大呼吸《おおいき》をつきながら、黙って聞いているお杉と目を合せたのである。
「誰?」
「へい。」と、ただまじまじする。
「姉さんに、その遊女《おいらん》が今夜中にお届け申す約束のものがあるが、寮にいらっしゃるお若さん、同一《おなじ》御主人だけれども、旦那とかには謂われぬこと、朋友《ともだち》にも知れてはならず、新造《しんぞ》などにさとられては大変なので、昼から間《ま》を見て、と思っても、つい人目があって出られなかった。
 ちょうど今夜は、内証《ないしょ》に大一座の客があって、雪はふる、部屋々々でも寐込《ねこ》んだのを機《しお》にぬけて出て、ここまでは来ましたが、土を踏むのにさえ遠退《とおの》いた、足がすくんで震える上に、今時こういう処へ出られる身分の者ではないから、どんな目に逢おうも知れない。
 寮はもうそこに見えます。一町とは間のない処、紅梅屋敷といえば直《じき》に知れますが、あれ、あんなに犬が吠《ほ》えて、どうすることもならないから、生命《いのち》を助けると思って、これを届けて下さいッて、拝むようにして言ったんだ。成程今考えるとここいらで大層犬が吠えたっけ。
 何、頼まれる方では造作のないこと、本人に取っては何かしら、様子の分らぬ廓《くるわ》のこと、一大事ででもあるようだから、直《じか》にことづかった品物があるんです。
 ただ渡せば可《い》いか、というとね、名も何にもおっしゃらないでも、寮の姉さんはよく御存じ、とこういうから、承知した。
 その寮はッて聞くと、ここを一町ばかり、左の路地へ入った処、ちょうど可い、帰路《かえりみち》もそこだというもの。そのまま別れて遣《や》って来ると、先刻《さっき》尋ねました、路地の突当りになる通《とおり》の内に、一軒|灯《あかり》の見える長屋の前まで来て、振向いて見ると、その婦人《おんな》がまだ立っていて、こっちへ指《ゆびさし》をしたように見えたけれども、朧気《おぼろげ》でよくは分らないから、一番《ひとつ》、その灯《あかり》を幸《さいわい》。
 路地をお入んなさいッて、酒にでも酔ったらしい、爺《じじい》の声で教えてくれた。
 何、一々|委《くわ》しいことをお話しするにも当らなかったんだけれど、こっちへ入って、はじめて、この明《あかる》い灯《あかり》を見ると、何だか雪路《ゆきみち》のことが夢のように思われたから、自分でもしっかり気を落着けるため、それから、筋道を謂わないでは、夜中に婦人《おんな》ばかりの処へ、たとえ頼まれたッても変だから。
 そういう訳です、ともかくもその頼まれたものを上げましょう、」といって、無造作に肱《ひじ》を張って、左の胸に高く取った衣兜《かくし》の中へ手を入れた。――
 固くなって聞いていた、二人とも身動きして、お若は愛くるしい頬を支えて白い肱に襦袢の袖口を搦《から》めながら、少し仰向いて、考えるらしく銀《すず》のような目を細め、
「何だろうねえ、杉や。」
「さようでございます、」とばかり一大事の、生命《いのち》がけの、約束の、助けるのと、ちっとも心あたりは無かったが、あえて客の言《ことば》を疑う色は無かったのである。
「待って下さい、」とこの時、また右の方の衣兜《かくし》を探って、小首を傾け、
「はてな、じゃあ外套《がいとう》の方だった、」と片膝立てたので。
 杉、
「私が。」
「確か左の衣兜へ、」
 と差俯《さしうつむ》いた処へ、玄関から、この人のと思うから、濡れたのを厭《いと》わず、大切に抱くようにして持って来た。
 敷居の上へ斜《ななめ》に拡げて、またその衣兜へ手を入れたが、冷たかったか、慄《ぞっ》としたよう。

       二十一

「可《よ》うございますよ、お落しなさいましても、あなたちっとも御心配なことはないの。」
 探しあぐんで、外套を押遣《おしや》って、ちと慌てたように広袖《どてら》を脱ぎながら、上衣の衣兜へまた手を入れて、顔色をかえて悄《しお》れてじっと考えた時、お若は
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