さて見廻すと居廻《いまわり》はなおのことで、もう点灯頃《ひともしごろ》。
 物の色は分るが、思いなしか陰気でならず、いつもより疾《はや》く洋燈《ランプ》をと思う処へ、大音寺前の方から盛《さかん》に曳込《ひきこ》んで来る乗込客、今度は五六台、引続いて三台、四台、しばらくは引きも切らず、がッがッ、轟々《ごうごう》という音に、地鳴《じなり》を交《まじ》えて、慣れたことながら腹にこたえ、大儀そうに、と眺めていたが、やがて途絶えると裏口に気勢《けはい》があった。
 五助はわざと大声で、
「お勝さんかね、……何だ、隣か、」と投げるように呟《つぶや》いたが、
「あれ、お上んなせえ、構わずずいと入るべし、誰方だね。」
 耳を澄《すま》して、
「畜生、この間もあの術《て》で驚かしゃあがった、尨犬《むくいぬ》め、しかも真夜中だろうじゃあねえか、トントントンさ、誰方だと聞きゃあ黙然《だんまり》で、蒲団《ふとん》を引被《ひっかぶ》るとトントンだ、誰方だね、黙《だんま》りか、またトンか、びッくりか、トンと来るか。とうとう戸外《おもて》から廻ってお隣で御迷惑。どのくらいか臆病《おくびょう》づらを下げて、極《きまり》の悪い思《おもい》をしたか知れやしねえ、畜生め、己《ひと》が臆病だと思いやあがって、」と中《ちゅう》ッ腹《ぱら》でずいと立つと、不意に膝かけの口が足へからんだので、亀《かめ》の子《こ》這《ばい》。
 じただらを踏むばかりに蹴はづして、一段膝をついて躙《にじ》り上《あが》ると、件《くだん》の障子を密《そっ》と開けたが、早や次の間は真暗《まっくら》がり。足をずらしてつかつかと出ても、馴《な》れて畳の破《やぶれ》にも突《つっ》かからず、台所は横づけで、長火鉢の前から手を伸《のば》すとそのまま取れる柄杓《ひしゃく》だから、並々と一杯、突然《いきなり》天窓《あたま》から打《ぶっ》かぶせる気、お勝がそんな家業でも、さすがに婦人《おんな》、びったりしめて行った水口の戸を、がらりと開けて、
「畜生!」といったが拍子抜け、犬も何にも居ないのであった。
 首を出して※[#「目+句」、第4水準2−81−91]《みま》わすと、がさともせぬ裏の塵塚《ちりづか》、そこへ潜って遁《に》げたのでもない。彼方《あなた》は黒塀がひしひしと、遥《はるか》に一|並《ならび》、一ツ折れてまた一並、三階の部屋々々、棟の数は多いけれど、まだいずくにも灯が入らず、森《しん》として三味線《さみせん》の音《ね》もしない。ただ遥に空《くう》を衝《つ》いて、雲のその夜《よ》は真黒《まっくろ》な中に、暗緑色の燈《ともしび》の陰惨たる光を放って、大屋根に一眼一角の鬼の突立《つった》ったようなのは、二上屋の常燈である。
 五助は半身水口から突出して立っていたが、頻《しきり》に後《うしろ》見らるるような気がして堪《たま》らず、柄杓をぴっしゃり。
「ちょッ、」と舌打、振返って、暗がりを透《すか》すと、明けたままの障子の中から仕切ったように戸外《おもて》の人どおり。
 やがて旧《もと》の仕事場の座に返って、フト心着いてはッと思った。
「おや、変だぜ。」
 五助は片膝立て、中腰になり、四ツに這《は》いなどして掻探《かいさぐ》り、膝かけをふるって見て、きょときょとしながら、
「はてな、先刻《さっき》ああだに因ってと、手に持ったまま、待てよ、作平は行ったと、はてな。」
 正に今日の日をもって、先刻研上げた、紅梅屋敷、すなわち寮の女《むすめ》お若の剃刀《かみそり》を、どこへか置忘れてしまったのであった。
「懐中《ふところ》へは入れず、」といいながら、慌てて懐中へ入れた手を、それなり胸に置いて、顔の色を変えたのである。
 しばらくして、
「まさか棚へ、」と思わず声を放って、フト顔を上げると、一枚あけた障子の際なる敷居の処を裾《すそ》にして、扱帯《しごき》の上あたりで褄《つま》を取って、鼠地に雪ぢらしの模様のある部屋着姿、眉の鮮《あざや》かな鼻筋の通った、真白《まっしろ》な頬に鬢《びん》の毛の乱れたのまで、判然《はっきり》と見えて、脊がすらりとして、結上げた髪が鴨居《かもい》にも支《つか》えそうなのが、じっと此方《こなた》を見詰めていたので、五助は小さくなって氷りついた。
「五助さん、」と得も言われぬやや太い声して、左の手で襟をあけると、褄を持っていた手を、ふらふらとある袖口に入れた時、裾がはらりと落ちて、脊が二三寸伸びたと思うと、肉《しし》つき豊かなぬくもりもまだありそうな、乳房も見える懐から、まともに五助に向けた蒼《あお》ざめた掌《てのひら》に、毒蛇の鱗《うろこ》の輝くような一|挺《ちょう》の剃刀を挟んでいて、
「これでしょう、」
 五助はがッと耳が鳴《なっ》た、頭に響く声も幽《かすか》に、山あり川あり野の末に、糸より
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