じゃあねえ、どの道何か怨《うらみ》のある遊女《おいらん》の幽霊とは思ったけれど、何楼《どこ》の何だか捕《つかま》えどこのねえ内はまだしも気休め。そう日が合って剃刀があって、当りがついちゃあ叶《かな》わねえ。
 そうしてお前《めえ》、咽喉《のど》を突いたんだっていったじゃあねえか。」
「これから、これへ、」と作平は垢《あか》じみた細い皺《しわ》だらけの咽喉仏《のどぼとけ》を露出《むきだ》して、握拳《にぎりこぶし》で仕方を見せる。
 五助も我知らず、ばくりと口を開《あ》いて、
「ああ、ああ、さぞ、血が出たろうな、血が、」
「そりゃ出たろうとも、たらたらたら、」と胸へ真直《まっすぐ》に棒を引く。
「うう、そして真赤《まっか》か。」
「黒味がちじゃ、鮪《まぐろ》の腸《わた》のようなのが、たらたらたら。」
「止《よ》しねえ、何だなお前《めえ》、それから口惜《くやし》いッて歯を噛《か》んで、」
「怨死《うらみじに》じゃの。こう髪を啣《くわ》えての、凄《すご》いような美しい遊女《おいらん》じゃとの、恐《こわ》いほど品の好《い》いのが、それが、お前こう。」と口を歪《ゆが》める。
「おお、おお、苦しいから白魚《しらお》のような手を掴《つか》み、足をぶるぶる。」と五助は自分で身悶《みもだえ》して、
「そしてお前《めえ》、死骸《しがい》を見たのか。」
「何を謂わっしゃる、私《わし》は話を聞いただけじゃ。遊女《おいらん》の名も知りはせぬが。」
 五助は目を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》ってホッと呼吸《いき》、
「何の事だ、まあ、おどかしなさんない。」

       十二

 作平も苦笑い、
「だってお前が、おかしくもない、血が赤いかの、指をぶるぶるだの、と謂うからじゃ。」
「目に見えるようだ。」
「私《わし》もやっぱり。」
「見えるか、ええ?」
「まずの。」
「何もそう幽霊に親類があるように落着いていてくれるこたあねえ、これが同一《おなじ》でも、おばさんに雪責にされて死んだとでもいう脆弱《かよわ》い遊女《おいらん》のなら、五助も男だ。こうまでは驚かねえが、旗本のお嬢さんで、手が利いて、中間《ちゅうげん》を一人もんどり打たせたと聞いちゃあ身動きがならねえ。
 作平さん、こうなりゃお前《めえ》が対手《あいて》だ、放しッこはねえぜ。
 一升買うから、後生だからお前今夜は泊り込《こみ》で、炬燵《こたつ》で附合ってくんねえ。一体ならお勝さんが休もうという日なんだけれど、限って出てしまったのも容易でねえ。
 そうかといって、宿場で厄介になろうという年紀《とし》じゃあなし、無茶に廓《くるわ》へ入るかい、かえって敵に生捉《いけど》られるも同然だ。夜が更けてみな、油に燈心だから堪《たま》るめえじゃねえか、恐しい。名代《みょうだい》部屋の天井から忽然《こつねん》として剃刀が天降《あまくだ》ります、生命《いのち》にかかわるからの。よ、隣のは筋が可《い》いぜ、はんぺんの煮込を御厄介になって、別に厚切な鮪《まぐろ》を取っておかあ、船頭、馬士《うまかた》だ、お前とまた昔話でもはじめるから、」と目金に恥じず悄《しょ》げたりけり。
 作平が悦喜《えっき》斜《ななめ》ならず、嬉涙《うれしなみだ》より真先《まっさき》に水鼻を啜《すす》って、
「話せるな、酒と聞いては足腰が立たぬけれども、このままお輿《みこし》を据えては例のお花主《とくい》に相済まぬて。」
「それを言うなというに。無縁塚をお花主《とくい》だなぞと、とかく魔の物を知己《ちかづき》にするから悪いや、で、どうする。」
「もう遅いから廓|廻《まわり》は見合せて直ぐに箕の輪へ行って来ます。」
「むむ、それもそうさの。私《わっし》も信心をすみが、お前《めえ》もよく拝んで御免|蒙《こうむ》って来ねえ。廓どころか、浄閑寺の方も一|走《はしり》が可《い》いぜ。とても独《ひとり》じゃ遣切《やりき》れねえ、荷物は確《たしか》に預ったい。」
「何か私《わし》も旨《うめ》え乾物《ひもの》など見付けて提げて来よう、待っていさっせえ。」と作平はてくてく出かけて、
「こんなに人通《ひとどおり》があるじゃないかい。」
「うんや、ここいらを歩行《ある》くのに怨霊《おんりょう》を得脱《とくだつ》させそうな頼母《たのも》しい道徳は一人も居ねえ。それに一しきり一しきりひッそりすらあ、またその時の寂しさというものは、まるで時雨が留《や》むようだ。」
 作平は空を仰いで、
「すっかり曇って暗くなったが、この陽気はずれの寒さでは、」
 五助|慌《あわただ》しく。
「白いものか、禁物々々。」


     点灯頃

       十三

「はい、はい、はい、誰方《どなた》だい。」
 作平のよぼけた後姿を見失った五助は、目の行《ゆ》くさきも薄暗いが、
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