うしろから肩越に気高い顔を一所にうつして、遊女《おいらん》が死のうという気じゃ。
 あなた、私の心が見えましょう、と覗込《のぞきこ》んだ時に、ああ、堪忍しておくんなさい、とその鏡を取って俯向《うつむ》けにして、男がぴったりと自分の胸へ押着《おッつ》けたと。
 何を他人がましい、あなた、と肩につかまった女の手を、背後《うしろ》ざまに弾《は》ねたので、うんにゃ、愚痴なようだがお前には怨《うらみ》がある。母様《おっかさん》によく肖《に》た顔を、ここで見るのは申訳がないといって、がっくり俯向いて男泣《おとこなき》。
 遊女《おいらん》はこれを聞くと、何と思ったか、それだけのものさえ持てようかという痩《や》せた指で、剃刀《かみそり》を握ったまま、顔の色をかえて、ぶるぶると震えたそうじゃが、突然《いきなり》逆手《さかて》に持直して、何と、背後《うしろ》からものもいわずに、男の咽喉《のど》へ突込《つっこ》んだ。」
 五助は剃刀の平《ひら》を指で圧《おさ》えたまま、ひょいと手を留めた。
「おお、危《あぶね》え。」
「それにの、刃物を刺すといや、針さしへ針をさすことより心得ておらぬような婦人《おんな》じゃあなかった。俺《おら》あ遊女《おいらん》の名と坂の名はついぞ覚えたことは無《ね》えッて、差配《おおや》さんは忘れたと謂《い》わッしたっけ。その遊女は本名お縫さんと謂っての、御大身じゃあなかったそうじゃが、歴《れっき》とした旗本のお嬢さんで、お邸《やしき》は番町辺。
 何でも徳川様|瓦解《がかい》の時分に、父様《おとっさん》の方は上野へ入《へえ》んなすって、お前、お嬢さんが可哀《かわい》そうにお邸の前へ茣蓙《ござ》を敷いて、蒔絵《まきえ》の重箱だの、お雛様《ひなさま》だの、錦絵《にしきえ》だのを売ってござった、そこへ通りかかって両方で見初めたという悪縁じゃ。男の方は長州藩の若侍。
 それが物変り星移りの、講釈のいいぐさじゃあないが、有為転変、芳原でめぐり合《あい》、という深い交情《なか》であったげな。
 牛込見附で、仲間《ちゅうげん》の乱暴者を一|人《にん》、内職を届けた帰りがけに、もんどりを打たせたという手利《てきき》なお嬢さんじや、廓《くるわ》でも一時《ひとしきり》四辺《あたり》を払ったというのが、思い込んで剃刀で突いた奴《やつ》。」
「ほい。」

       十

「男はまるで油断なり、万に一つも助かる生命《いのち》じゃあなかったろうに、御運かの。遊女《おいらん》は気がせいたか、少し狙《ねらい》がはずれた処へ、その胸に伏せて、うつむいていなすった、鏡で、かちりとその、剃刀の刃が留まったとの。
 私《わし》はどちらがどうとも謂《い》わぬ。遊女《おいらん》の贔屓《ひいき》をするのじゃあないけれど、思詰めたほどの事なら、遂げさしてやりたかったわ、それだけ心得のある婦人《おんな》が、仕損じは、まあ、どうじゃ。」
「されば、」
「その代り返す手で、我が咽喉《のど》を刎《は》ね切った遊女《おいらん》の姿の見事さ!
 口惜《くや》しい、口惜しい、可愛いこの人の顔を余所《よそ》の婦人《おんな》に見せるのは口惜しい! との、唇を噛《か》んだまま、それなりけり。
 全く鏡を見なすった時に、はッと我に返って、もう悪所には来まいという、吃《きっ》とした心になったのじゃげな。
 容子《ようす》で悟った遊女《おいらん》も目が高かった。男は煩悩の雲晴れて、はじめて拝む真如《しんにょ》の月かい。生命《いのち》の親なり智識なり、とそのまま頂かしった、鏡がそれじゃ。はて総《ふさ》つき錦の袋入はその筈《はず》じゃて、お家に取っては、宝じゃものを。
 念を入れて仕上げてくれ、近々にその後室様が、実の児《こ》よりも可愛がっておいでなさる、甥御《おいご》が一方《ひとかた》。悪い茶も飲まずに、さる立派な学校を卒業なされた。そのお祝に、御教訓をかねてお遣物《つかいもの》になさるつもり、まずまあ早くいってみりゃ、油断が起って女狂《おんなぐるい》、つまり悪所入《あくしょばいり》などをしなさらぬようにというのじゃ。
 作平頼む、と差配《おおや》さんが置いて行《ゆ》かれた。畏《かしこま》り奉るで、昨日《きのう》それが出来て、差配さんまで差出すと、直《すぐ》に麹町のお邸《やしき》とやらへ行《ゆ》かしった。
 点火頃《ひともしごろ》に帰って来て、作、喜べと大枚三両。これはこれはと心《しん》から辞退をしたけれども、いや先方様《さきさま》でも大喜び、実は鏡についてその話のあったのは、御維新《ごいっしん》になって八年、霜月の十九日じゃ。月こそ違うが、日は同一《おんなじ》、ちょうど昨日の話で今日、更《あらた》めてその甥御様に送る間にあった、ということで、研賃《とぎちん》には多かろうが、一杯飲んでくれと、
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