様じゃで、」
「御同様※[#感嘆符疑問符、1−8−78]」と五助は日脚を見て仕事に懸《かか》る気、寮の美人の剃刀を研ぐ気であろう。桶《おけ》の中で砥石《といし》を洗いながら、慌てたように謂《いい》返した。
「御同様は気がねえぜ、お前《めえ》の方にも曰《いわく》があるかい。」
「ある段か、お前さん。こういうては何じゃけれど、田町の剃刀研、私《わし》は広徳寺前を右へ寄って、稲荷町《いなりちょう》の鏡研、自分達が早や変化《へんげ》の類《たぐい》じゃ、へへへへへ。」と薄笑《うすわらい》。
「おやおや、汝《てめえ》から名乗る奴《やつ》もねえもんだ。」と、かっちり、つらつらと石を合せる。
「じゃがお前、東京と代が替って、こちとらはまるで死んだ江戸のお位牌《いはい》の姿じゃわ、羅宇《らお》屋の方はまだ開《あ》けたのが出来たけれど、もう貍穴《まみあな》の狸、梅暮里の鰌《どじょう》などと同一《ひとつ》じゃて。その癖職人絵合せの一枚|刷《ずり》にゃ、烏帽子素袍《えぼしすおう》を着て出ようというのじゃ。」
「それだけになお罪が重いわ。」
「まんざらその祟《たたり》に因縁のないことも無いのじゃ、時に十九日の。」
「何か剃刀の失《う》せるに就いてか、」
「つい四五日前、町内の差配人《おおや》さんが、前の溝川の橋を渡って、蔀《しとみ》を下《おろ》した薄暗い店さきへ、顔を出さしったわ。はて、店賃《たなちん》の御催促。万年町の縁の下へ引越《ひっこ》すにも、尨犬《むくいぬ》に渡《わたり》をつけんことにゃあなりませぬ。それが早や出来ませぬ仕誼《しぎ》、一刻も猶予ならぬ立退《たちの》けでござりましょう。その儀ならば後《のち》とは申しませぬ、たった今川ン中へ引越しますと謂《い》うたらば。
 差配《おおや》さん苦笑《にがわらい》をして、狸爺め、濁酒《どぶろく》に喰《くら》い酔って、千鳥足で帰って来たとて、桟橋《さんばし》を踏外そうという風かい。溝店《どぶだな》のお祖師様と兄弟分だ、少《わか》い内から泥濘《ぬかぬみ》へ踏込んだ験《ためし》のない己《おれ》だ、と、手前《てめえ》太平楽を並べる癖に。
 御意でござります。
 どこまで始末に了《お》えねえか数《すう》が知れねえ。可《い》いや、地尻の番太と手前《てめえ》とは、己《おら》が芥子坊主《けしぼうず》の時分から居てつきの厄介者だ。当《あて》もねえのに、毎日研物の荷を担いで、廓内をぶらついて、帰りにゃあ箕輪《みのわ》の浄閑寺へ廻って、以前|御贔屓《ごひいき》になりましたと、遊女《おいらん》の無縁の塔婆に挨拶《あいさつ》をして来やあがる。そんな奴も差配《さはい》内になくッちゃあお祭の時幅が利かねえ。忰《せがれ》は稼いでるし、稲荷町の差配は店賃の取り立てにやあ歩行《ある》かねえッての、むむ。」と大得意。この時五助はお若の剃刀をぴったりと砥《と》にあてたが、哄然《こうぜん》として、
「気に入った気に入った、それも贔屓の仁左衛門だい。」


     作平物語

       九

「ところで聞かっしゃい、差配《おおや》さまの謂《い》うのには、作平、一番《ひとつ》念入《ねんいり》に遣《や》ってくれ、その代り儲かるぜ、十二分のお手当だと、膨らんだ懐中《ふところ》から、朱総《しゅぶさ》つき、錦《にしき》の袋入というのを一面の。
 何でも差配《おおや》さんがお出入《でいり》の、麹町《こうじまち》辺の御大家の鏡じゃそうな。
 さあここじゃよ。十九日に因縁づきは。憚《はばか》ってお名前は出さぬが、と差配《おおや》さんが謂わっしゃる。
 その御大家は今|寡婦様《ごけさま》じゃ、まず御後室というのかい。ところでその旦那様というのはしかるべきお侍、もうその頃は金モオルの軍人というのじゃ。
 鹿児島戦争の時に大したお手柄があって、馬車に乗らっしゃるほどな御身分になんなされたとの。その方が少《わか》い時よ。
 誰もこの迷《まよい》ばかりは免れぬわ。やっぱりそれこちとらがお花主《とくい》の方に深いのが一人出来て、雨の夜《よ》、雪の夜もじゃ。とどの詰《つま》りがの、床の山で行倒れ、そのまんまずッと引取られたいより他《ほか》に、何の望《のぞみ》もなくなったというものかい。居続けの朝のことだとの。
 遊女《おいらん》は自分が薄着なことも、髪のこわれたのも気がつかずに、しみじみと情人《いろ》の顔じゃ。窶《やつ》れりゃ窶れるほど、嬉しいような男振《おとこぶり》じゃが、大層|髭《ひげ》が伸びていた。
 鏡台の前に坐らせて、嗽《うがい》茶碗で濡《ぬら》した手を、男の顔へこう懸けながら、背後《うしろ》へ廻った、とまあ思わっせえ。
 遊女《おいらん》は、胸にものがあってしたことか。わざと八寸の延鏡《のべかがみ》が鏡|立《たて》に据えてあったが、男は映る顔に目も放さず。

前へ 次へ
全22ページ中7ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング