。宵におびやかされた名残《なごり》とばかり、さまでには思わなかった作平も、まさしく少《わか》い声の男に、寮の道を教えたので、すてもおかず、ともかくもと大急ぎで、出掛ける拍子に、棒を小腋《こわき》に引きそばめた臆病《おくびょう》ものの可笑《おかし》さよ。
 戸外《おもて》へ出ると、もう先刻《さっき》から雪の降る底に雲の行交《ゆきか》う中に、薄く隠れ、鮮かに顕《あらわ》れていたのがすっかり月の夜《よ》に変った。火の番の最後の鉄棒《かなぼう》遠く響いて廓《くるわ》の春の有明なり。
 出合頭《であいがしら》に人が一人通ったので、やにわに棒を突立てたけれども、何、それは怪しいものにあらず、
「お早うがすな。」と澄《すま》して土手の方へ行った。
 積んだ薪《たきぎ》の小口さえ、雪まじりに見える角の炭屋の路地を入ると、幽《かすか》にそれかと思う足あとが、心ばかり飛々《とびとび》に凹《くぼ》んでいるので、まず顔を見合せながら進んで門口《かどぐち》へ行《ゆ》くと、内は寂《しん》としていた。
 これさえ夢のごときに、胸を轟《とどろ》かせながら、試みに叩いたが、小塚原《こつかッぱら》あたりでは狐の声とや怪しまんと思わるるまで、如月《きさらぎ》の雪の残月に、カンカンと響いたけれども、返事がない。
 猶予ならず、庭の袖垣を左に見て、勝手口を過ぎて大廻りに植込の中を潜《くぐ》ると、向うにきらきら水銀の流るるばかり、湯殿の窓が雪の中に見えると思うと、前の溝と覚しきに、むらむらと薄くおよそ人の脊丈ばかり湯気が立っていた。
 これにぎょッとして五助、作平、湯殿の下へ駆けつけた時はもう喘《あえ》いでいた。逡巡《しりごみ》をする五助に入交《いれかわ》って作平、突然《いきなり》手を懸けると、誰《た》が忘れたか戸締《とじまり》がないので、硝子窓《がらすまど》をあけて跨《また》いで入ると、雪あかりの上、月がさすので、明かに見えた真鍮《しんちゆう》の大薬鑵。蓋《ふた》と別々になって、うつむけに引《ひっ》くりかえって、濡手拭《ぬれてぬぐい》を桶《おけ》の中、湯は沢山にはなかったと思われ、乾き切って霜のような流《ながし》が、網を投げた形にびっしょりであった。
 上口から躍込むと、あしのあとが、板の間の濡れたのを踏んで、肝を冷しながら、明《あかり》を目的《めあて》に駆けつけると、洋燈《ランプ》は少し暗くしてあったが、
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