こういうのじゃ。
 頂きます頂きます、飲代《のみしろ》になら百両でも御辞退|仕《つかまつ》りまする儀ではござりませぬと、さあ飲んだ、飲んだ、昨夜《ゆうべ》一晩。
 ウイか何かでなあ五助さん、考えて見ると成程な、その大家の旦那がすっかり改心をなされた、こりゃ至極じゃて。
 お連合《つれあい》の今の後室が、忘れずに、大事にかけてござらっしゃる、お心懸《こころがけ》も天晴《あっぱれ》なり、来歴づきでお宝物にされた鏡はまた錦の袋入。こいつも可《い》いわい。その研手《とぎて》に私《わし》をつかまえた差配さんも気に入ったり、研いだ作平もまず可いわ。立派な身分になんなすった甥御も可《よ》し。戒《いましめ》のためと謂《い》うて、遣物にさっしゃる趣向も受けた。手間じゃない飲代にせいという文句も可しか、酒も可いが、五助さん。
 その発端になった、旗本のお嬢さん、剃刀で死んだ遊女《おいらん》の身になって御覧《ごろう》じろ、またこのくらいよくない話はあるまい。
 迷《まよい》じゃ、迷は迷じゃが、自分の可愛い男の顔を、他《ほか》の婦人《おんな》に見せるのが厭《いや》さに、とてもとあきらめた処で、殺して死のうとまで思い詰めた、心はどうじゃい。
 それを考えれば酒も咽喉《のど》へは通らぬのを、いやそうでない。魂魄《こんぱく》この土《ど》に留《とど》まって、浄閑寺にお参詣《まいり》をする私《わし》への礼心、無縁の信女達の総代に麹町の宝物を稲荷町までお遣わしで、私《わし》に一杯振舞うてくれる気、と、早や、手前勝手。飲みたいばかりの理窟をつけて、さて、煽《あお》るほどに、けるほどに、五助さん、どうだ。
 私《わし》の顔色の悪いのは、お憚《はばか》りだけれど今日ばかりは貧乏のせいでない。三年目に一度という二日酔の上機嫌じゃ、ははは。」とさも快げに見えた。


     夕空

       十一

 時に五助は反故紙《ほごがみ》を扱《しご》いて研《と》ぎ澄《すま》した剃刀《かみそり》に拭《ぬぐい》をかけたが、持直して掌《てのひら》へ。
 折から夕暮の天《そら》暗く、筑波から出た雲が、早や屋根の上から大鷲《おおわし》の嘴《くちばし》のごとく田町の空を差覗《さしのぞ》いて、一しきり烈《はげ》しくなった往来《ゆきき》の人の姿は、ただ黒い影が行違《ゆきちが》い、入乱るるばかりになった。
 この際|一際《ひときわ
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