にもう鉄瓶をかちりといわせて、障子の内に女の気勢《けはい》。
「唯今。」
「帰《けえ》んなすったかい、」
「お勝さん?」と捨吉は中腰に伸上りながら、
「もうそんな時分かな。」
「いいえ、いつもより小一時間遅いんですよ、」
 という時、二枚|立《だて》のその障子の引手の破目《やぶれめ》から仇々《あだあだ》しい目が二ツ、頬のあたりがほの見えた。蓋《けだ》し昼の間《うち》寐《ね》るだけに一間の半《なかば》を借り受けて、情事《いろごと》で工面の悪い、荷物なしの新造《しんぞ》が、京町あたりから路地づたいに今頃戻って来るとのこと。
「少し立込んだもんですからね、」
「いや、御苦労様、これから緩《ゆっく》りとおひけに相成《あいなり》ます?」
「ところが不可《いけ》ないの、手が足りなくッて二度の勤《つとめ》と相成ります。」
「お出懸《でかけ》か、」と五助。
「ええ、困るんですよ、昨夜《ゆうべ》もまるッきり寐ないんですもの、身体《からだ》中ぞくぞくして、どうも寒いじゃアありませんか、お婆さん堪《たま》らないから、もう一枚下へ着込んで行《ゆ》きましょうと思って、おお、寒い。」といってまた鉄瓶をがたりと遣《や》る。
 さらぬだに震えそうな作平、
「何てえ寒いこッてございましょう、ついぞ覚えませぬ。」
「はッくしょい、ほう、」と呼吸《いき》を吹いて、堪《たま》りかねたらしい捨吉続けざまに、
「はッくしょい! ああ、」といって眉を顰《ひそ》め、
「噂《うわさ》かな、恐しく手間が取れた、いや、何しろ三挺頂いて帰りましょう。薄気味は悪いけれど、名にし負う捨どんがお使者でさ、しかも身替《みがわり》を立てる間《うち》奥の一間で長ッ尻《ちり》と来ていらあ。手ぶらでも帰られまい。五助さん、ともかくも貰って行《ゆ》くよ。途中で自然《おのず》からこの蓋《ふた》が取れて手が切れるなんざ、おっと禁句、」とこの際、障子の内へ聞かせたさに、捨吉相方なしの台辞《せりふ》あり。
 五助はまめだって、
「よくそう謂《い》いなせえよ、」
「十九日かね、」と内からいう。
「ええ、御存じ、」といいながら、捨吉腰を伸《のば》してずいと立った。
「希代だわねえ。」
「やっぱり何でございますかい、」と作平はこれから話す気、振《ふり》かえて、荷を下《おろ》し、屋台へ天秤を立てかける。
 捨吉はぐいと三挺、懐へ突込みそうにしたが、じっと
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