の狂女がもうけた、実子で、しかも長男で、この生れたて変なのが、やや育ってからも変なため、それを気にして気が狂った、御新造は、以前、国家老の娘とか、それは美しい人であったと言う……
 ある秋の半ば、夕《ゆうべ》より、大雷雨のあとが暴風雨《あらし》になった、夜の四つ時十時過ぎと思う頃、凄《すさま》じい電光の中を、蜩《ひぐらし》が鳴くような、うらさみしい、冴《さ》えた、透《とお》る、女の声で、キイキイと笑うのが、あたかも樹の上、雲の中を伝うように大空に高く響いて、この町を二三度、四五たび、風に吹廻されて往来《ゆきき》した事がある……通魔《とおりま》がすると恐れて、老若、呼吸《いき》をひそめたが、あとで聞くと、その晩、斎木(医師の姓)の御新造が家《うち》を抜出し、町内を彷徨《さまよ》って、疲れ果てた身体《からだ》を、社《やしろ》の鳥居の柱に、黒髪を颯《さっ》と乱した衣《きぬ》は鱗《うろこ》の、膚《はだえ》の雪の、電光《いなびかり》に真蒼《まっさお》なのが、滝をなす雨に打たれつつ、怪しき魚《うお》のように身震《みぶるい》して跳ねたのを、追手《おって》が見つけて、医師《いしゃ》のその家へかつぎ込んだ。間もなく枢《ひつぎ》という四方|張《ばり》の俎《まないた》に載《の》せて焼かれてしまった。斎木の御新造は、人魚になった、あの暴風雨《あらし》は、北海の浜から、潮《うしお》が迎いに来たのだと言った――
 その翌月、急病で斎木国手が亡くなった。あとは散々《ちりぢり》である。代診を養子に取立ててあったのが、成上りのその肥満女《ふとっちょ》と、家蔵《いえくら》を売って行方知れず、……下男下女、薬局の輩《ともがら》まで。勝手に掴《つか》み取りの、梟《ふくろう》に枯葉で散り散りばらばら。……薬臭い寂しい邸は、冬の日売家の札が貼《は》られた。寂《しん》とした暮方、……空地の水溜《みずたまり》を町の用心水《ようじんみず》にしてある掃溜《はきだめ》の芥棄場《ごみすてば》に、枯れた柳の夕霜に、赤い鼻を、薄ぼんやりと、提灯《ちょうちん》のごとくぶら下げて立っていたのは、屋根から落ちたか、杢若《もくわか》どの。……親は子に、杢介とも杢蔵とも名づけはしない。待て、御典医であった、彼のお祖父《じい》さんが選んだので、本名は杢之丞《もくのじょう》だそうである。
 ――時に、木の鳥居へ引返そう。

       二

 ここに、杢若がその怪しげなる蜘蛛《くも》の巣を拡げている、この鳥居の向うの隅、以前|医師《いしゃ》の邸の裏門のあった処に、むかし番太郎と言って、町内の走り使人《つかい》、斎《とき》、非時の振廻《ふれまわ》り、香奠《こうでん》がえしの配歩行《くばりある》き、秋の夜番、冬は雪|掻《かき》の手伝いなどした親仁《おやじ》が住んだ……半ば立腐りの長屋建て、掘立小屋《ほったてごや》という体《てい》なのが一棟《ひとむね》ある。
 町中が、杢若をそこへ入れて、役に立つ立たないは話の外で、寄合持で、ざっと扶持《ふち》をしておくのであった。
「杢さん、どこから仕入れて来たよ。」
「縁の下か、廂合《ひあわい》かな。」
 その蜘蛛の巣を見て、通掛《とおりかか》りのものが、苦笑いしながら、声を懸けると、……
「違います。」
 と鼻ぐるみ頭を掉《ふ》って、
「さと[#「さと」に傍点]からじゃ、ははん。」と、ぽんと鼻を鳴らすような咳払《せきばらい》をする。此奴《こいつ》が取澄ましていかにも高慢で、且つ翁寂《おきなさ》びる。争われぬのは、お祖父さんの御典医から、父典養に相伝して、脈を取って、ト小指を刎《は》ねた時の容体と少しも変らぬ。
 杢若が、さと[#「さと」に傍点]と云うのは、山、村里のその里の意味でない。註をすれば里よりは山の義で、字に顕《あらわ》せば故郷《ふるさと》になる……実家《さと》になる。
 八九年|前《ぜん》晩春の頃、同じこの境内で、小児《こども》が集《あつま》って凧《たこ》を揚げて遊んでいた――杢若は顱《はち》の大きい坊主頭で、誰よりも群を抜いて、のほんと脊が高いのに、その揚げる凧は糸を惜《おし》んで、一番低く、山の上、松の空、桐の梢《こずえ》とある中に、わずかに百日紅《さるすべり》の枝とすれすれな所を舞った。
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大風来い、大風来い。
   小風は、可厭《いや》、可厭……
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 幼い同士が威勢よく唄う中に、杢若はただ一人、寒そうな懐手、糸巻を懐中《ふところ》に差込んだまま、この唄にはむずむずと襟を摺《す》って、頭《かぶり》を掉《ふ》って、そして面《つら》打って舞う己《おの》が凧に、合点合点をして見せていた。
 ……にもかかわらず、烏が騒ぐ逢魔《おうま》が時、颯《さっ》と下した風も無いのに、杢若のその低い凧が、懐の糸巻をくるりと空
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