の肩を抱いた。
「どうなさいました。」と女房飛込み、この体《てい》を一目見るや、
「雑巾々々。」と宙に躍って、蹴返《けかえ》す裳《もすそ》に刎《は》ねた脚は、ここに魅《さ》した魔の使《つかい》が、鴨居《かもい》を抜けて出るように見えた。
女の袖つけから膝へ湛《たま》って、落葉が埋《うず》んだような茶殻を掬《すく》って、仰向《あおむ》けた盆の上へ、俊吉がその手の雫《しずく》を切った時。
「可《よ》ござんすよ、可ござんすよ、そうしてお置きなさいまし、今|私《わたくし》が、」
と言いながら白に浅黄を縁《へり》とりの手巾《ハンケチ》で、脇を圧《おさ》えると、脇。膝をずぶずぶと圧えると、膝を、濡れたのが襦袢を透《とお》して、明石の縞《しま》に浸《にじ》んでは、手巾にひたひたと桃色の雫を染めた。――
「ええ、私あの時の事を思出したの、短刀で、ここを切られた時、」……
と、一年おいて如月《きさらぎ》の雪の夜更けにお染は、俊吉の矢来の奥の二階の置炬燵《おきごたつ》に弱々と凭《もた》れて語った。
さてその夜は、取って返して、両手に雑巾を持って、待合の女房が顕《あらわ》れたのに、染次は悄《しお》れながら、羅《うすもの》の袖を開いて見せて、
「汚点《しみ》になりましょうねえ。」
「まあ、ねえ、どうも。」
と伸上ったり、縮んだり。
「何しろ、脱がなくッちゃお前さん、直き乾くだけは乾きますからね……あちらへ来て。さあ――旦那、奥様のお膚《はだ》を見ますよ、済みませんけれど、貴下《あなた》が邪慳《じゃけん》だから仕方が無い。……」
俊吉は黙って横を向いた。
「浴衣と、さあ、お前さん、」
と引立てるようにされて、染次は悄々《しおしお》と次に出た。……組合の気脉《きみゃく》が通《かよ》って、待合の女房も、抱主《かかえぬし》が一張羅《いっちょうら》を着飾らせた、損を知って、そんなに手荒にするのであろう、ああ。
十
「大丈夫よ……大丈夫よ。」
「飛んだ、飛んだ事を……お前、主人にどうするえ。」
「まさか、取って食おうともしませんから、そんな事より。」
と莞爾《にっこり》した、顔は蒼白《あおじろ》かったが、しかしそれは蚊帳の萌黄《もえぎ》が映ったのであった。
帰る時は、効々《かいがい》しくざっと干したのを端折《はしょ》って着ていて、男に傘を持たせておいて、止せと云うに、小雨の中をちょこちょこ走りに自分で俥《くるま》を雇って乗せた。
蛇目傘《じゃのめ》を泥に引傾《ひっかた》げ、楫棒《かじぼう》を圧《おさ》えぬばかり、泥除《どろよけ》に縋《すが》って小造《こづくり》な女が仰向《あおむ》けに母衣《ほろ》を覗《のぞ》く顔の色白々と、
「お近い内に。」
「…………」
「きっと?」
「むむ。」
「きっとですよ。」
俊吉は黙って頷《うなず》いた。
暗くて見えなかったろう。
「きっとよ。」
「分ったよ。」
「可《よ》ござんすか。」
「煩《うるさ》い。」と心にもなく、車夫の手前、宵から心遣いに疲れ果てて、ぐったりして、夏の雨も寒いまでに身体《からだ》もぞくぞくする癇癪《かんしゃく》まぎれに云ったのを、気にも掛けず、ほっと安心したように立直ったと思うと、
「車夫《わかいしゅ》さん、はい――……あの車賃は払いましたよ。」
「有るよ。」
「威張ってさ、それから少しですが御祝儀。気をつけて上げて下さいよ、よくねえ、気をつけて、可ござんすか。」
「大丈夫でございますよ、姉さん。」と楫《かじ》[#ルビの「かじ」は底本では「かぢ」]を取った片手に祝儀を頂きながら。
「でも遠いんですもの、道は悪し、それに暗いでしょう。」
「承合《うけあい》ましたよ。」
「それじゃ、お近いうち。」
影を引切《ひっき》るように衝《つ》と過ぎる車のうしろを、トンと敲《たた》いたと思うと夜の潮に引残されて染次は残ってしょんぼりと立つ。
車が路を離れた時、母衣の中とて人目も恥じず、俊吉は、ツト両掌《りょうて》で面《おもて》を蔽《おお》うて、はらはらと涙を落した。……
「でも、遠いんですもの、路は悪し、それに暗いでしょう。」
行方も知らず、分れるように思ったのであった。
そのまま等閑《なおざり》にすべき義理ではないのに、主人にも、女にも、あの羅《うすもの》の償《つぐない》をする用意なしには、忍んでも逢ってはならないと思うのに、あせって※[#「てへん+爭」、第4水準2−13−24]《もが》いても、半月や一月でその金子《かね》は出来なかった。
のみならず、追縋《おいすが》って染次が呼出しの手紙の端に、――明石のしみは、しみ抜屋にても引受け申さず、この上は、くくみ洗いをして、人肌にて暖め乾かし候よりせむ方なしとて、毎日少しずつふくみ洗いいたし候ては、おかみさんと私とにて毎夜|
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