火鉢の処は横町から見通しでしょう、脱ぐにも着るにも、あの、鏡台の前しかないんだもの。……だから、お前さんに壁の方を向いてて下さいと云ったじゃありませんか。」
「だって、以前は着ものを着たより、その方が多かった人じゃないか、私はちっとも恐れやしないよ。」
「ねえ……ほほほ。……」
 笑ってちょっと口籠《くちごも》って、
「ですがね、こうなると、自分ながら気が変って、お前さんの前だと花嫁も同じことよ。……何でしたっけね、そら、川柳とかに、下に居て嫁は着てからすっと立ち……」
「お前は学者だよ。」
「似てさ、お前さんに。」
「大きにお世話だ、学者に帯を〆《し》めさせる奴があるもんか、おい、……まだ一人じゃ結べないかい。」
「人、……芸者の方が、ああするんだわ。」
「勝手にしやがれ。」
「あれ。」
「ちっとやけらあねえ。」
「溝《どぶ》へ落っこちるわねえ。」
「えへん!」
 と怒鳴って擦違いに人が通った。早や、旧《もと》来た瓦斯《がす》に頬冠《ほおかむ》りした薄青い肩の処が。
「どこだ。」
「一直《いちなお》の塀の処だわ。」
 直《じ》きその近所であった。
「座敷はこれだけかね。」
 と俊吉は小さな声で。
「もう、一間ありますよ。」
 と染次が云う。……通された八畳は、燈《あかり》も明《あかる》し、ぱっとして畳も青い。床には花も活《いか》って。山家を出たような俊吉の目には、博覧会の茶座敷を見るがごとく感じられた。が、入る時見た、襖一重《ふすまひとえ》が直ぐ上框《あがりかまち》兼帯の茶の室で、そこに、髷《まげ》に結《い》った娑婆気《しゃばき》なのが、と膝を占めて構えていたから。
 話に雀ほどの声も出せない。
 で、もう一間と※[#「目+句」、第4水準2−81−91]《みまわ》すと、小庭の縁が折曲りに突当りが板戸になる。……そこが細目にあいた中に、月影かと見えたのは、廂《ひさし》に釣った箱燈寵《はこどうろう》の薄明りで、植込を濃く、むこうへぼかして薄《うっす》りと青い蚊帳《かや》。
 ト顔を見合せた。
 急に二人は更《あらたま》ったのである。
 男が真中《まんなか》の卓子台《ちゃぶだい》に、肱《ひじ》を支《つ》いて、
「その後《のち》は。どうしたい。」
「お話にならないの。」
 と自棄《やけ》に、おくれ毛を揺《ゆす》ったが、……心配はさせない、と云う姉のような呑込んだ優《やさし》い微笑《ほほえみ》。

       九

「失礼な、どうも奥様をお呼立て申しまして済みません。でも、お差向いの処へ、他人が出ましてはかえってお妨げ、と存じまして、ねえ、旦那。」
 と襖越に待合の女房が云った。
 ぴたりと後手《うしろで》にその後を閉めたあとを、もの言わぬ応答《うけこたえ》にちょっと振返って見て、そのまま片手に茶道具を盆ごと据えて立直って、すらりと蹴出《けだ》しの紅《くれない》に、明石の裾を曳《ひ》いた姿は、しとしとと雨垂れが、子持縞《こもちじま》の浅黄に通って、露に活《い》きたように美しかった。
「いや。」
 とただ間拍子《まびょうし》もなく、女房の言いぐさに返事をする、俊吉の膝へ、衝《つ》と膝をのっかかるようにして盆ごと茶碗を出したのである。
 茶を充満《いっぱい》の吸子《きびしょ》が一所に乗っていた。
 これは卓子台《ちゃぶだい》に載《の》せると可《よ》かった。でなくば、もう少し間《なか》を措《お》いて居《すわ》れば仔細《しさい》なかった。もとから芸妓《げいしゃ》だと離れたろう。前《さき》の遊女《おいらん》は、身を寄せるのに馴《な》れた。しかも披露目《ひろめ》の日の冷汗を恥じて、俊吉の膝に俯伏《うっぷ》した処を、(出ばな。)と呼ばれて立ったのである。……
 お染はもとの座へそうして近々と来て盆ごと出しながら、も一度襖越しに見返った。名ある女を、こうはいかに、あしらうまい、――奥様と云ったな――膝に縋《すが》った透見《すきみ》をしたか、恥と怨《うらみ》を籠めた瞳は、遊里《さと》の二十《はたち》の張《はり》が籠《こも》って、熟《じっ》と襖に注がれた。
 ト見つつ夢のようにうっかりして、なみなみと茶をくんだ朝顔|形《なり》の茶碗に俊吉が手を掛ける、とコトリと響いたのが胸に通って、女は盆ごと男が受取ったと思ったらしい。ドンと落ちると、盆は、ハッと持直そうとする手に引かれて、俊吉の分も浚《さら》った茶碗が対。吸子《きびしょ》も共に発奮《はずみ》を打ってお染は肩から胸、両膝かけて、ざっと、ありたけの茶を浴びたのである。
 むらむらと立つ白い湯気が、崩るる褄《つま》の紅《くれない》の陽炎《かげろう》のごとく包んで伏せた。
 頸《うなじ》を細く、面《おもて》を背けて、島田を斜《ななめ》に、
「あっ。」と云う。
「火傷《やけど》はしないか。」と倒れようとするそ
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