のある男が、力を貸して、船頭まじりに、この徒《てあい》とて確《たしか》ではござりませなんだ。ひょろひょろしながら、あとのまず二|樽《たる》は、荷《にな》って小売|店《みせ》へ届けました。
嘉吉の始末でござります。それなり船の荷物にして、積んで帰れば片附きますが、死骸《しがい》ではない、酔ったもの、醒《さ》めた時の挨拶が厄介じゃ、とお船頭は遁《にげ》を打って、帆を掛けて、海の靄《もや》へと隠れました。
どの道訳を立ていでは、主人方へ帰られる身体ではござりませぬで、一まず、秋谷の親許《おやもと》へ届ける相談にかかりましたが、またこのお荷物が、御覧の通りの大男。それに、はい、のめったきり、捏《てこ》でも動かぬに困《こう》じ果てて、すっぱすっぱ煙草《たばこ》を吹かすやら、お前様、嚔《くしゃみ》をするやら、向脛《むかはぎ》へ集《たか》る蚊を踵《かかと》で揉殺《もみころ》すやら、泥に酔った大鮫《おおざめ》のような嘉吉を、浪打際に押取巻《おっとりま》いて、小田原|評定《ひょうじょう》。持て余しておりました処へ、ちょうど荷車を曳《ひ》きまして、藤沢から一日|路《みち》、この街道つづきの長者園の土手へ通りかかりましたのが……」
茜色《あかねいろ》の顱巻《はちまき》を、白髪天窓《しらがあたま》にちょきり結び。結び目の押立《おった》って、威勢の可《い》いのが、弁慶|蟹《がに》の、濡色あかき鋏《はさみ》に似たのに、またその左の腕|片々《かたかた》、へし曲って脇腹へ、ぱツと開《あ》け、ぐいと握る、指と掌《てのひら》は動くけれども、肱《ひじ》は附着《くッつ》いてちっとも伸びず。銅《あかがね》で鋳たような。……その仔細《しさい》を尋ぬれば、心がらとは言いながら、去《さんぬ》る年、一|膳《ぜん》飯屋でぐでんになり、冥途《めいど》の宵を照らしますじゃ、と碌《ろく》でもない秀句を吐いて、井桁《いげた》の中に横|木瓜《もっこう》、田舎の暗夜《やみ》には通りものの提灯《ちょうちん》を借りたので、蠣殻道《かきがらみち》を照らしながら、安政の地震に出来た、古い処を、鼻唄で、地《つち》が崩れそうなひょろひょろ歩行《ある》き。好《い》い心持に眠気がさすと、邪魔な灯《あかり》を肱《ひじ》にかけて、腕を鍵形《かぎなり》に両手を組み、ハテ怪しやな、汝《おのれ》、人魂《ひとだま》か、金精《かねだま》か、正体を顕《あらわ》せろ! とトロンコの据眼《すえまなこ》で、提灯を下目に睨《にら》む、とぐたりとなった、並木の下。地虫のような鼾《いびき》を立てつつ、大崩壊に差懸《さしかか》ると、海が変って、太平洋を煽《あお》る風に、提灯の蝋《ろう》が倒れて、めらめらと燃えついた。沖の漁火《いさりび》を袖に呼んで、胸毛がじりじりに仰天し、やあ、コン畜生、火の車め、まだ疾《はえ》え、と鬼と組んだ横倒れ、転廻《ころがりまわ》って揉消《もみけ》して、生命《いのち》に別条はなかった。が、その時の大火傷《おおやけど》、享年六十有七歳にして、生まれもつかぬ不具《かたわ》もの――渾名《あだな》を、てんぼう蟹《がに》の宰八《さいはち》と云う、秋谷在の名物|親仁《おやじ》。
「……私《わし》が爺《じじい》殿でござります。」
と姥《うば》は云って、微笑《ほほえ》んだ。
小次郎法師は、寿《ことぶ》くごとく、一揖《いちゆう》して、
「成程、尉《じょう》殿だね。」と祝儀する。
「いえ、もう気ままものの碌でなしでござりますが、お庇《かげ》さまで、至って元気がようござりますので、御懇意な近所へは、進退《かけひき》が厭《いや》じゃ、とのう、葉山を越して、日影から、田越逗子《たごえずし》の方へ、遠くまで、てんぼうの肩に背負籠《しょいかご》して、栄螺《さざえ》や、とこぶし、もろ鯵《あじ》の開き、うるめ鰯《いわし》の目刺など持ちましては、飲代《のみしろ》にいたしますが、その時はお前様、村のもとの庄屋様、代々長者の鶴谷《つるや》喜十郎様、」
と丁寧に名のりを上げて、
「これが私《わし》ども、お主《しゅ》筋に当りましての。そのお邸《やしき》の御用で、東海道の藤沢まで、買物に行ったのでござりました。
一月に一度ぐらいは、種々《いろいろ》入用のものを、塩やら醤油やら、小さなものは洋燈《ランプ》の心まで、一車《ひとくるま》ずつ調えさっしゃります。
横浜は西洋臭し、三崎は品が落着かず、界隈《かいわい》は間に合わせの俄《にわか》仕入れ、しけものが多うござりますので、どうしても目量《めかた》のある、ずッしりしたお堅いものは、昔からの藤沢に限りますので、おねだんも安し、徳用向きゆえ、御大家の買物はまた別で、」
と姥は糸を操るような話しぶり。心のどかに口をまわして、自分もまたお茶参った。
しばらく往来もなかったのである。
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