《しさい》はない。」
ト見ると襖から承塵《なげし》へかけた、雨《あま》じみの魍魎《もうりょう》と、肩を並べて、その頭《かしら》、鴨居《かもい》を越した偉大の人物。眉太く、眼円《まなこつぶら》に、鼻隆うして口の角《けた》なるが、頬肉《ほおじし》豊《ゆたか》に、あっぱれの人品なり。生《き》びらの帷子《かたびら》に引手のごとき漆紋の着いたるに、白き襟をかさね、同一《おなじ》色の無地の袴《はかま》、折目高に穿《は》いたのが、襖一杯にぬっくと立った。ゆき短《みじか》な右の手に、畳んだままの扇を取って、温顔に微笑を含み、動《ゆる》ぎ出でつ、ともなく客僧の前へのっしと坐ると、気に圧《お》された僧は、ひしと茶斑《ちゃまだら》の大牛に引敷《ひっし》かれたる心地がした。
はっと机に、突俯《つッぷ》そうとする胸を支えて、
「誰だ。」
と言った。
「六十余州、罷通《まかりとお》るものじゃ。」
「何と申す、何人《なんぴと》……」
「到る処の悪左衛門、」
と扇子を構えて、
「唯今、秋谷に罷在《まかりあ》る、すなわち秋谷悪左衛門と申す。」
「悪…………」
「悪は善悪の悪でござる。」
「おお、悪……魔、人間を呪《のろ》うものか。」
「いや、人間をよけて通るものじゃ。清き光天にあり、夜鴉《よがらす》の羽《は》うらも輝き、瀬の鮎《あゆ》の鱗《うろこ》も光る。隈《くま》なき月を見るにさえ、捨小舟《すておぶね》の中にもせず、峰の堂の縁でもせぬ。夜半人跡の絶えたる処は、かえって茅屋《かやや》の屋根ではないか。
しかるを、わざと人間どもが、迎え見て、損《そこな》わるるは自業自得じゃ。」
四十一
「真日中《まひなか》に天下の往来を通る時も、人が来れば路を避ける。出会《いであ》えば傍《わき》へ外れ、遣過《やりす》ごして背後《うしろ》を参る。が、しばしば見返る者あれば、煩わしさに隠れ終《おお》せぬ、見て驚くは其奴《そやつ》の罪じゃ。
いかに客僧、まだ拙者《それがし》を疑わるるか。」
と莞爾《かんじ》として、客僧の坊主頭を、やがて天井から瞰下《みおろ》しつつ、
「かくてもなお、我等がこの宇宙の間に罷在《まかりあ》るを怪《あやし》まるるか。うむ、疑いに※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》られたな。※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みひら》いたその瞳も、直ちに瞬く。
前へ
次へ
全95ページ中82ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング