ども》の時《とき》から、其《そ》の像《ざう》の事《こと》が、目《め》にも心《こゝろ》にも身躰《からだ》にも離《はな》れなかつた為《せゐ》なんです。
 こんな辺鄙《へんぴ》な温泉《をんせん》へ参《まゐ》つたのも、実《じつ》は忘《わす》れられない可懐《なつか》しい気《き》が為《し》たゝめです。何処《どこ》か知《し》らんが、其《そ》の木像《もくざう》は、父《ちゝ》が此《こ》の土地《とち》から持《も》つて帰《かへ》つたと言《い》ふぢやありませんか。
 山《やま》も谷《たに》も野《の》も水《みづ》も、其処《そこ》には私《わたくし》の師匠《ししやう》がある、と信《しん》じ居《ゐ》た。果《はた》して貴下《あなた》にお目《め》にかゝつた。――あの、白無垢《しろむく》に常夏《とこなつ》の長襦袢《ながじゆばん》、浅黄《あさぎ》の襟《ゑり》して島田《しまだ》に結《ゆ》つた、両《りやう》の手《て》に秘密《ひみつ》を蔵《かく》した、絶世《ぜつせ》の美人《びじん》の像《ざう》を刻《きざ》んだ方《かた》は、貴下《あなた》の其《そ》の祖父様《おぢいさん》では無《な》いでせうか。」
 雪枝《ゆきえ》は熟《じつ》と対手《あひて》を視《なが》めた。
「え、貴下《あなた》かも分《わか》らん、貴下《あなた》かも知《し》れません。先生《せんせい》、仰有《おつしや》つて下《くだ》さい、一生《いつしやう》のお願《ねが》ひです。」
「若《わけ》え旦那《だんな》、祖父殿《おんぢいどん》が事《こと》は私《わし》も知《し》らんで、何《なに》か言《い》はつしやりますやうな悪戯《いたづら》を為《し》たかも分《わか》らねえ。私《わし》は早《は》や、獅子鼻《しゝばな》や団栗目《どんぐりめ》、御神酒徳利《おみきどつくり》の口《くち》なら真似《まね》も遣《や》るが、弁天様《べんてんさま》は手《て》に負《お》えねえ……まあ、そんな事《こと》は措《お》かつしやい。ぢやが、お前様《めえさま》は山《やま》が先生《せんせい》、水《みづ》が師匠《ししやう》と言《い》ふわけ合《あひ》で、私等《わしら》が気《き》にや天上界《てんじやうかい》のやうな東京《とうきやう》から、遥々《はる/″\》と……飛騨《ひだ》の山家《やまが》までござつたかね。」
と掻蹲《かつゝくば》ひ、両腕《りやううで》を膝《ひざ》に預《あづ》けたまゝ啣煙管《くはへぎせる》で摺出《すりだ》す躰《てい》は、嘴《くちばし》長《なが》い鷺《さぎ》の船頭《せんどう》化《ば》けたやうな態《さま》である。
 雪枝《ゆきえ》は、しばらく猶予《ためら》つた。
「仮《かり》にも先生《せんせい》と呼《よ》んだ貴下《あなた》に向《むか》つて、嘘《うそ》は言《い》へません。……一度《いちど》来《こ》やう、是非《ぜひ》見《み》たい。生《うま》れない以前《いぜん》から雪枝《ゆきえ》の身躰《からだ》とは、許嫁《いひなづけ》の約束《やくそく》があるやうな此《こ》の土地《とち》です。信者《しんじや》が善光寺《ぜんくわうじ》、身延《みのぶ》へ順礼《じゆんれい》を為《す》るほどな願《ねがひ》だつたのが、――いざ、今度《こんど》、と言《い》ふ時《とき》、信仰《しんかう》が鈍《にぶ》つて、遊山《ゆさん》に成《な》つた。
 其《それ》が悪《わる》かつたんです……
 家内《かない》と二人連《ふたりづれ》で来《き》たんです、然《しか》も婚礼《こんれい》を為《し》たばかりでせう。」
 盃《さかづき》を納《をさめ》るなり汽車《きしや》に乗《の》つて家《いへ》を出《で》た夫婦《ふうふ》の身体《からだ》は、人間《にんげん》だか蝶《てふ》だか区別《くべつ》が附《つ》かない。遥々《はる/″\》来《き》た、と言《い》はれては何《なん》とも以《もつ》て極《きまり》が悪《わる》い。気《き》も魂《たましひ》もふら/\で、六十余州《ろくじふよしう》、菜《な》の花《はな》の上《うへ》を舞《ま》ひ歩行《ある》いても疲《つか》れぬ元気《げんき》。其《それ》も突《つゝ》かけに夜昼《よるひる》かけて此処《こゝ》まで来《き》たなら、まだ/\仕事《しごと》の手前《てまへ》、山《やま》にも水《みづ》にも言訳《いひわけ》があるのに……彼方《あつち》へ二晩《ふたばん》此方《こつち》へ三晩《みばん》、泊《とま》り泊《とま》りの道草《みちくさ》で、――花《はな》には紅《くれなゐ》、月《つき》には白《しろ》く、処々《ところ/″\》の温泉《をんせん》を、嫁《よめ》の姿《すがた》で彩色《さいしき》しては、前後左右《ぜんごさいう》、額縁《がくぶち》のやうな形《かたち》で、附添《つきそ》つて、木《き》を刻《きざ》んで拵《こしら》へたものが、恁《か》う行《い》くものか、と自《みづ》から彫刻家《てうこくか》であるのを嘲《あざ》ける了見《れうけん》。

前へ 次へ
全71ページ中15ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング