八尺余《はつしやくよ》も積《つも》つた雪《ゆき》が一晩《ひとばん》に融《と》けて、びしや/\と消《き》えた。あれ松《まつ》が蒼《あを》いわ、と言《い》ふ内《うち》に、天《てん》も地《ち》も赤黒《あかぐろ》く成《な》つて、活《い》きものと言《い》ふ活《いき》ものは、泥《どろ》の上《うへ》を泳《およ》いだての。
 其《そ》の響《ひゞ》きで、今《いま》の処《ところ》へ、熱湯《ねつたう》が湧出《わきだ》いた。ぢやがさ、天道《てんだう》人《ひと》を殺《ころ》さずかい。生命《いのち》だけは助《たすか》つても、食《く》はう飲《の》まうの分別《ふんべつ》も出《で》なんだ処《ところ》温泉《をんせん》が昌《さか》つて来《き》たで、何《ど》うやら娑婆《しやば》の形《かたち》に成《な》つた。其《そ》のかはり、旧《もと》から噂《うはさ》の高《たか》かつたお天守《てんしゆ》の此《こ》の辺《へん》は、人《ひと》の寄附《よりつ》かぬ凄《すご》い処《ところ》に成《な》りましたよ。見《み》さつせえ、いまに太陽様《おてんとうさま》が出《で》さつせえても、濠端《ほりばた》かけて城跡《しろあと》には、お前様《めえさま》と私等《わしら》が他《ほか》には、人間《にんげん》らしい影《かげ》もねえだ。偶々《たま/\》突立《つゝた》つて歩行《ある》くものは、性《しやう》の善《よ》くねえ、野良狐《のらぎつね》か、山猫《やまねこ》だよ。
 こんな処《ところ》へ、主《ぬし》は何《なん》として又《また》姉様《あねさま》の人形《にんぎやう》連《つ》れて来《き》さつせえた。」
「其《それ》を順《じゆん》にお話《はなし》しませう、」
と雪枝《ゆきえ》は一度《いちど》塞《ふさ》いだ目《め》を、茫乎《ばう》と開《あ》けて、
「父《ちゝ》が此《こ》の処《ところ》を巡廻《じゆんくわい》した節《せつ》、何処《どこ》か山蔭《やまかげ》の小《ちひ》さな堂《だう》に、美《うつくし》い二十《はたち》ばかりの婦《をんな》の、珍《めづら》しい彫像《てうざう》が有《あ》つたのを、私《わたくし》の玩弄《おもちや》にさせうと、堂守《だうもり》に金子《かね》を遣《や》つて、供《とも》のものに持《も》たせて帰《かへ》つたのを、他《ほか》に姉妹《きやうだい》もなし、姉《あね》さんが一人《ひとり》出来《でき》たやうに、負《おぶ》つたり抱《だ》いたり為《し》ました。大《おほき》な像《ざう》で、飯《めし》の時《とき》なんぞ、並《なら》んで坐《すは》る、と七才《なゝつ》の年《とし》の私《わたくし》の芥子坊主《けしばうず》より、づゝと上《うへ》に、髪《かみ》の垂《さが》つた島田《しまだ》の髷《まげ》が見《み》えたんです。衣服《きもの》は白無垢《しろむく》に、水浅黄《みづあさぎ》の襟《ゑり》を重《かさ》ねて、袖口《そでくち》と褄《つま》はづれは、矢張《やつぱり》白《しろ》に常夏《とこなつ》の花《はな》を散《ち》らした長襦袢《ながじゆばん》らしく出来《でき》て居《ゐ》て……其《それ》が上《うへ》から着《き》せたのではない。木彫《きぼり》に彩色《さいしき》を為《し》たんです。が、不思議《ふしぎ》なのは、其《そ》の白無垢《しろむく》、何《ど》うして置《お》いても些《ちつ》とでも塵埃《ほこり》が溜《たま》らず、虫《むし》も蠅《はい》も、遂《つい》ぞ集《たか》つたことが無《な》い。花畑《はなばたけ》へでも抱《だ》いて出《で》ると、綺麗《きれい》な蝶々《てふ/\》は、帯《おび》に来《き》て、留《とま》つたんです、最《も》う一《ひと》つ不思議《ふしぎ》なのは、立像《りつざう》に刻《きざ》んだのが、膝《ひざ》柔《やはら》かにすつと坐《すは》る。
 袖《そで》は両方《りやうはう》から振《ふり》が合《あ》つて、乳《ちゝ》のあたりで、上下《うへした》に両手《りやうて》を重《かさ》ねたのが、ふつくりして、中《なか》に何《なに》か入《はい》つて居《ゐ》さうで、……駆《か》けて行《い》つて、
『姉《ねえ》さん、』と捉《つか》まつた時《とき》なぞ、肩《かた》が揺《ゆ》れると、ころりん、ころりんと其《それ》は実《じつ》に……何《なん》とも微妙《びめう》な音《ね》が為《し》て幽《かすか》に鳴《な》る、……父母《ふたおや》をはじめ、見《み》るほどのものは、何《なん》だらう何《なん》だらう、と言《い》ひ/\したが、指《ゆび》を折《を》らなくては分《わか》らないから、無論《むろん》開《あ》けては見《み》ず仕舞《じまひ》。
 とう/\其《そ》の彫像《てうざう》を――何《なん》です――父《ちゝ》が暖炉《ストーブ》に燻《く》べて焼《や》いたまでも分《わか》らなかつたんです。
 ちら/\雪《ゆき》の降《ふ》る晩方《ばんがた》でした。……私《わたくし》は、小児《こども》の群食《むらぐひ
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