》、はて、お前様《めえさま》、何《なに》言《い》はつしやる。何《ど》うさつしやる……気《き》を静《しづ》めてくらつせえよ。」
「否《いゝえ》、何《ど》うぞ、失礼《しつれい》ながらお名告《なの》り下《くだ》さい。御覧《ごらん》の通《とほ》り、私《わたくし》は何《ど》うかして居《ゐ》る。……夢《ゆめ》なんだか、現《うつゝ》なんだか、自分《じぶん》だか他人《たにん》だか、宛然《まるで》弁別《わきまへ》が無《な》いほどです――前刻《さつき》からお話《はな》し被為《なす》つた事《こと》も、其方《そちら》では唯《たゞ》あはあは笑《わら》つて居《ゐ》らつしやるのが、種々《いろ/\》な言《ことば》に成《な》つて、私《わたくし》の耳《みゝ》に聞《き》こえるのかも分《わか》りません。が、其《それ》に為《し》てもお聞《き》かせ下《くだ》さい。お名《な》が此《こ》の耳《みゝ》へ入《はい》れば、私《わたくし》は私《わたくし》だけで、承《うけたまは》つたことゝ了見《れうけん》します。香村雪枝《かむらゆきえ》つて言《い》ふんです。先生《せんせい》、真個《まつたく》は靱負《ゆきへ》と言《い》つて、昔《むかし》の侍《さむらひ》のやうな名《な》なんですが、其《それ》を其《そ》のまゝ雪《ゆき》の枝《えだ》と書《か》いて、号《がう》にして居《ゐ》る若輩《じやくはい》ものです。」
「えゝ/\、困《こま》つたな、これは。名《な》を言《い》へなら、言《い》ふだけれど、改《あらたま》つては面目《めんもく》ねえ。」
と天窓《あたま》を撫《な》でざまに、するりと顱巻《はちまき》を抜《ぬ》いて取《と》り、
「へい、些《ちつ》と爺《ぢゞい》には似合《にあ》ひましねえ、村《むら》の衆《しゆ》も笑《わら》ふでがすが、八才《やつつ》ぐれえな小児《こども》だね、へい、菊松《きくまつ》つて言《い》ふでがすよ。」
「菊松先生《きくまつせんせい》、貴下《あなた》は凡人《ぼんじん》では居《ゐ》らつしやらない。」
「勘弁《かんべん》して下《く》らつせえ。うゝとも、すうとも返答《へんたふ》打《う》つ術《すべ》もねえだ…私《わし》、先生《せんせい》と言《い》はれるは、臍《ほぞ》の緒《を》切《き》つては最初《はじめて》だでね。」
「何《なん》とも御謙遜《ごけんそん》で、申上《まをしあ》げやうもありません。大先生《だいせんせい》、貴下《あなた》で無《な》くつて、何《ど》うして、彼《あ》の五位鷺《ごゐさぎ》が刻《きざ》めます。あの船《ふね》が動《うご》かせます。而《そ》して、其《そ》の秘密《ひみつ》を人《ひと》に知《し》らせまいために、天《てん》の火《ひ》で焚《や》くと見《み》せて、船《ふね》をお秘《かく》しなさるんでせう。」
「お前様《めえさま》もの、祖父殿《おんぢいどん》の真似《まね》をするだ、で、私《わし》が自由《じいう》には成《な》んねえだ。間違《まちが》へて先生《せんせい》だ、師匠《ししやう》だ言《い》はつしやるなら、祖父殿《おんぢいどん》を然《さ》う呼《よ》ばらつせえ。」
「同《おな》じ事《こと》です、大名《だいみやう》の子孫《しそん》が華族《くわぞく》なら、名家《めいか》の御子孫《ごしそん》も先生《せんせい》です。特《とく》に私《わたくし》は然《さ》う申《まを》さなければ成《な》りません。
 私《わたくし》が今《いま》の此《こ》の仕事《しごと》を為《す》るやうに成《な》りましたのは、貴下《あなた》か、或《あるひ》は其《そ》の祖父様《ぢいさま》の御薫陶《ごくんたう》に預《あづか》つたと言《い》つて宜《よろ》しい。」……


       技芸天《ぎげいてん》


         九

「父《ちゝ》は或県《あるけん》の書記官《しよきくわん》でした。」
と雪枝《ゆきえ》は衣兜《かくし》に手《て》を挟《はさ》んだ。
「一年《あるとし》、此《こ》の地《ち》を巡廻《じゆんくわい》した事《こと》が有《あ》ります。私《わたくし》が七才《なゝつ》の時《とき》です。未《ま》だ其《そ》の頃《ころ》は、今《いま》の温泉《をんせん》は無《な》かつたやうですね。」
「温泉《をんせん》の開《ひら》けたのは近《ちか》い頃《ころ》の事《こと》でがすよ。然《さ》うでがすとも。前《まへ》から寂《さび》れては居《ゐ》ましつけえ、お城《しろ》の居《ゐ》まはりに、未《ま》だ、町《まち》の形《かたち》の残《のこ》つた頃《ころ》は、温泉《をんせん》は無《な》かつけの。
 地震《ぢしん》が豪《えら》く押《おつ》ぱだかつて、しやつきり残《のこ》つたのはお天守《てんしゆ》ばかりぢや。人間《にんげん》も家《いへ》も押転《おつころ》ばして、濠《ほり》も半分《はんぶん》がた埋《うま》りましけ。冬《ふゆ》の事《こと》での、其《そ》の前兆《ぜんてう》べい、
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