はなかつた。背後《うしろ》に、尚《な》ほ覚果《さめは》てぬ暁《あかつき》の夢《ゆめ》が幻《まぼろし》に残《のこ》つたやうに、衝《つ》と聳《そび》へた天守《てんしゆ》の真表《まおもて》。差懸《さしかゝ》つたのは大手道《おほてみち》で、垂々下《だら/\お》りの右左《みぎひだり》は、半《なか》ば埋《うも》れた濠《ほり》である。
空濠《からぼり》と云《い》ふではない、が、天守《てんしゆ》に向《むか》つた大手《おほて》の跡《あと》の、左右《さいう》に連《つら》なる石垣《いしがき》こそまだ高《たか》いが、岸《きし》が浅《あさ》く、段々《だん/\》に埋《うも》れて、土堤《どて》を掛《か》けて道《みち》を包《つゝ》むまで蘆《あし》が森《もり》をなして生茂《おひしげ》る。然《しか》も、鎌《かま》は長《とこしへ》に入《い》れぬ処《ところ》、折《をり》から枯葉《かれは》の中《なか》を透《す》いて、どんよりと霞《かすみ》の溶《と》けた水《みづ》の色《いろ》は、日《ひ》の出《で》を待《ま》つて、さま/″\の姿《すがた》と成《な》つて、其《それ》から其《それ》へ、ふわ/\と遊《あそ》びに出《で》る、到《いた》る処《ところ》の、あの陽炎《かげらふ》が、こゝに屯《たむろ》したやうである。
其《そ》の蘆《あし》がくれの大手《おほて》を、婦《をんな》は分《わ》けて、微吹《そよふ》く朝風《あさかぜ》にも揺《ゆ》らるゝ風情《ふぜい》で、男《をとこ》の振《ふら》つくとゝもに振《ふら》ついて下《お》りて来《き》た。……若《も》しこれで声《こゑ》がないと、男女《ふたり》は陽炎《かげらふ》が顕《あら》はす、其《そ》の最初《さいしよ》の姿《すがた》であらうも知《し》れぬ。
が、青年《わかもの》が息切《いきゞ》れのする声《こゑ》で、言《ものい》ふのを聞《き》け。
「寐《ね》るなんて、……寐《ね》るなんて、何《ど》うしたんだらう。真個《まつたく》、気《き》が着《つ》いて自分《じぶん》でも驚《おどろ》いた。白《しら》んで来《き》たもの。何時《いつ》の間《ま》に夜《よ》が明《あ》けたか些《ちつ》とも知《し》らん。お前《まへ》も又《また》何《なん》だ、打《ぶ》つてゞも揺《ゆすぶ》つてゞも起《おこ》せば可《い》いのに――しかし疲《つか》れた、私《わたし》は非常《ひじやう》に疲《つか》れて居《ゐ》る。お前《まへ》に分《わか》れてから以来《このかた》、まるで一目《ひとめ》も寐《ね》ないんだから。……」
とせい/\、肩《かた》を揺《ゆすぶ》ると、其《そ》の響《ひゞ》きか、震《ふる》へながら、婦《をんな》は真黒《まつくろ》な髪《かみ》の中《なか》に、大理石《だいりせき》のやうな白《しろ》い顔《かほ》を押据《おしす》えて、前途《ゆくさき》を唯《たゞ》熟《じつ》と瞻《みまも》る。
二
「考《かんが》へると、能《よ》くあんな中《なか》で寐《ね》られたものだ。」
と男《をとこ》は尚《な》ほ半《なか》ば呟《つぶや》くやうに、
「言《い》つて見《み》れば敵《てき》の中《なか》だ。敵《てき》の中《なか》で、夜《よ》の明《あ》けるのを知《し》らなかつたのは実《じつ》に自分《じぶん》ながら度胸《どきやう》が可《い》い。……いや、然《さ》うではない、一時《いちじ》死《し》んだかも分《わか》らん。
然《さ》うだ、死《し》んだと言《い》へば、生死《いきしに》の分《わか》らなかつた、お前《まへ》の無事《ぶじ》な顔《かほ》を見《み》た嬉《うれ》しさに、張詰《はりつ》めた気《き》が弛《ゆる》んで落胆《がつかり》して、其《それ》つ切《きり》に成《な》つたんだ。嘸《さぞ》お前《まへ》は、待《ま》ちに待《ま》つた私《わたし》と云《い》ふものが、目《め》の前《まへ》に見《み》えるか見《み》えないに、だらしなく、ぐつたりと成《な》つて了《しま》つて、どんなにか、頼《たの》みがひがないと怨《うら》んだらう。
真個《まつたく》、安心《あんしん》の余《あま》り気絶《きぜつ》したんだと断念《あきら》めて、許《ゆる》してくれ。寐《ね》たんぢやない。又《また》、何《ど》うして寐《ね》られる……実《じつ》は一刻《いつこく》も疾《はや》く、此《こ》の娑婆《しやば》へ連出《つれだ》すために、お前《まへ》の顔《かほ》を見《み》たらば其《そ》の時《とき》! 壇《だん》を下《お》りるなぞは間弛《まだる》ツこい。天守《てんしゆ》の五階《ごかい》から城趾《しろあと》へ飛下《とびお》りて帰《かへ》らう! 其《そ》の意気込《いきご》みで出懸《でか》けたんだ、実際《じつさい》だよ。
が、彼《あ》の頂上《ちやうじやう》から飛《とん》だ日《ひ》には、二人《ふたり》とも五躰《ごたい》は微塵《みじん》だ。五躰《ごたい》が微塵《みぢん》ぢや、顔
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