夫《りょうし》がこの爺さんである事は言うまでもなかろうと思う。さて猟夫が、雪の降頻《ふりしき》る中を、朝の間《ま》に森へ行《ゆ》くと、幹と根と一面の白い上に、既に縦横に靴で踏込んだあとがあった。――畜生、こんなに疾《はや》くから旦那が来ている。博士の、静粛な白銀《しろがね》の林の中なる白鷺の貴婦人の臨月の観察に、ズトン! は大禁物であるから、睨《にら》まれては事こわしだ。一旦《いったん》破寺《やれでら》――西明寺はその一頃は無住であった――その庫裡《くり》に引取って、炉に焚火《たきび》をして、弁当を使ったあとで、出直して、降積った雪の森に襲い入ると、段々に奥深く、やがて向うに青い水が顕《あら》われた、土地で、大沼というのである。
今はよく晴れて、沼を囲んだ、樹の袖、樹の裾《すそ》が、大《おおい》なる紺青《こんじょう》の姿見を抱《いだ》いて、化粧するようにも見え、立囲った幾千の白い上※[#「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1−91−26]《じょうろう》が、瑠璃《るり》の皎殿《こうでん》を繞《めぐ》り、碧橋《へききょう》を渡って、風に舞うようにも視《なが》められた。
この時、煩悩《ぼんのう》も、菩提《ぼだい》もない。ちょうど汀《なぎさ》の銀の蘆《あし》を、一むら肩でさらりと分けて、雪に紛《まが》う鷺が一羽、人を払う言伝《ことづて》がありそうに、すらりと立って歩む出端《でばな》を、ああ、ああ、ああ、こんな日に限って、ふと仰がるる、那須嶽連山の嶺《みね》に、たちまち一朶《いちだ》の黒雲の湧《わ》いたのも気にしないで、折敷《おりしき》にカンと打った。キャッ! と若い女の声。魂《たま》ぎる声。
這《は》ったか、飛んだか、辷《すべ》ったか。猟夫《りょうし》が目くるめいて駆付けると、凍《い》てざまの白雪に、ぽた、ぽた、ぽたと紅《あけ》が染まって、どこを撃ったか、黒髪の乱れた、うつくしい女が、仰向《あおむ》けに倒れ、もがいた手足をそのままに乱れ敷いていたのである。
いやが上の恐怖と驚駭《きょうがい》は、わずかに四五間離れた処に、鳥の旦那が真白《まっしろ》なヘルメット帽、警官の白い夏服で、腹這《はらばい》になっている。「お助けだ――旦那、薬はねえか。」と自分が救われたそうに手を合せた。が、鳥旦那は――鷺が若い女になる――そんな魔法は、俺が使ったぞ、というように知らん顔して、遠めがねを、それも白布で巻いたので、熟《じっ》とどこかの樹を枝を凝視《みつ》めていて、ものも言わない。
猟夫は最期《いまわ》と覚悟をした。……
そこで、急いで我が屋へ帰って、不断、常住、無益な殺生を、するな、なせそと戒める、古女房の老|巫女《いちこ》に、しおしおと、青くなって次第を話して、……その筋へなのって出るのに、すぐに梁《はり》へ掛けたそうに褌《ふんどし》をしめなおすと、梓《あずさ》の弓を看板に掛けて家業にはしないで、茅屋《あばらや》に隠れてはいるが、うらないも祈祷《きとう》も、その道の博士だ――と言う。どういうものか、正式に学校から授けない、ものの巧者は、学士を飛越えて博士になる。博士|神巫《いちこ》が、亭主が人殺しをして、唇の色まで変って震えているものを、そんな事ぐらいで留《や》めはしない……冬の日の暗い納戸で、糸車をじい……じい……村も浮世も寒さに喘息《ぜんそく》を病んだように響かせながら、猟夫に真裸《まっぱだか》になれ、と歯茎を緊《し》めて厳《おごそか》に言った。経帷子《きょうかたびら》にでも着換えるのか、そんな用意はねえすべい。……井戸川で凍死《こごえじに》でもさせる気だろう。しかしその言《ことば》の通りにすると、蓑《みの》を着よ、そのようなその羅紗《らしゃ》の、毛くさい破《やぶれ》帽子などは脱いで、菅笠《すげがさ》を被《かぶ》れという。そんで、へい、苧殻《おがら》か、青竹の杖《つえ》でもつくか、と聞くと、それは、ついてもつかいでも、のう、もう一度、明神様の森へ走って、旦那が傍《そば》に居ようと、居まいと、その若い婦女《おんな》の死骸《しがい》を、蓑の下へ、膚《はだ》づけに負いまして、また早や急いで帰れ、と少し早めに糸車を廻わしている。
いや、もう、肝魂《きもたま》を消して、さきに死骸の傍を離れる時から、那須颪《なすおろし》が真黒《まっくろ》になって、再び、日の暮方の雪が降出したのが、今度行向う時は、向風の吹雪になった。が、寒さも冷たさも猟夫は覚えぬ。ただ面《つら》を打って巴卍《ともえまんじ》に打ち乱れる紛泪《ふんぱく》の中に、かの薙刀《なぎなた》の刃がギラリと光って、鼻耳をそがれはしまいか。幾度立ちすくみになったやら。……
我が手で、鉄砲でうった女の死骸を、雪を掻《か》いて膚におぶった、そ、その心持というものは、紅蓮《ぐれん》大紅蓮の土壇《
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