いるんですから。……
 ――畜生――
 と声も出ないで。」
「ははあ、たちまち一打《ひとうち》……薙刀ですな。」
「明神様のお持料《もちりょう》です。それでも持ったのが私です、討てる、切れるとは思いませんが――畜生――叩倒《たたきたお》してやろうと思って、」
「切られる分には、まだ、不具《かたわ》です。薙倒されては真二《まっぷた》つです、危い、危い。」
 と、いまは笑った。
「堪忍して下さいな、貴方をばけものだと思った私は、浅間《あさま》しい獣《けだもの》です、畜生です、犬です、犬に噛《か》まれたとお思いになって。」
「馬鹿なことを……飛んでもない、犬に咬《か》まれるくらいなら、私はお誓さんの薙刀に掛けられますよ。かすり疵《きず》も負わないから、太腹《ふとっぱら》らしく太平楽をいうのではないんだが、怒りも怨みもしやしません。気やすく、落着いてお話しなさい。あなたは少しどうかしている、気を沈めて。……これは、ばけものの手触りかも知れませんよ。」
 そこで、背《せな》に手を置くのに、みだれ髪が、氷のように冷たく触った。
「どうぞ、あの薙刀の飛ばないように。」
 その黒髪は、漆の刃《やいば》のようにヒヤリとする。
 水へ辷《すべ》った柄杓が、カンと響いた。

       四

「……小県さん、女が、女の不束《ふつつか》で、絶家を起す、家を立てたい――」
「絶家を起す、家を起《た》てたい……」
「ええ、その考えは、間違っていますでしょうか。」
「何が、間違いです。誰が間違いだと云いました。とんでもない、天晴《あっぱ》れじゃありませんか。」
「私の父は、この土地のものなんです。」
「ああ、成程。」
「――この藩のちょっとした藩士だったそうなんですが、道楽ものだったと思います。御維新の騒ぎに刀さしをやめたのは可《い》いんですけれど、そういう人ですから、堅気《かたぎ》の商売が出来ないで、まだ――街道が賑《にぎや》かだったそうですから、片原の町はずれへ、茶屋|旅籠《はたご》の店を出したと申しますの。
 ……貴方、こちらへいらっしゃりがけに――その、あの、牡丹《ぼたん》、牡丹ですが。」
 なぜか、引くいきに、声がかすれて、
「あの咲いております処は、今は田畝《たんぼ》のようになりましたけれど、もと、はなれの庭だったそうですの……そして――
 牡丹は、父の手しおにかけましたものですって。……あとでは、料理ばかりにして、牡丹亭といったそうです。父がなくなりますと……それが人手から人手へ渡って、あとでは立ちぐされも同様。でも、それも、不景気で、こぼし屋の引取手もなしに、暴風雨《あらし》で潰《つぶ》れたのが、家の骸骨《がいこつ》のように路端《みちばた》に倒れていますわ。
 母はその牡丹亭ごろの、おかみさん。……そんな事は申しませんでもいいんですけど、父とは、大層若くて年が違いました。
 ――町あたりの芸者だそうです。ですが、武家の娘だったせいですか――まだ、私がお腹に。……」
 ふと耳許《みみもと》をほんのりと薄く染めた。
「お腹のうち、本所に居る東京の遠縁のものにたよって出まして、のちに、浅草で、また芸者をしたんですけれど、なくなります時、いまわの際まで、血統《ちすじ》が絶える、田沢の家を、田沢の家をと、せめて後を絶《たや》さないように遺言をしたんです。
 私はその時分、新橋でお酌に出ておりました。十四や十五の考えで、この上一本になって、人の世話になるにした処で、一人で商売をした処で、家を立てるのぞみがありそうに思われません。だもんですから、都合をつけて道をかえまして、梅水へ奉公をしましたのです。自分の口からお恥かしい、余りあからさまのようですが、つむりのものより、なりかたちより、少しでもお金を貯めて、小さな店でも出せますように、その上で、堅気の養子になる人を、縁があったらと、思詰め、念じ切っておりました。
 こんなものでも、一つ家《うち》に、十年の余も辛抱をしますうちには、お一人やお二方、相談をして下さる方のないこともなかったんですけど、田沢の家の養子とでは、まるでかけ離れました縁ですもの。冷たい顔して、きっぱりと、お断り申しました。それが、心得違いだったんです、間違っていたんです。ねえ。」
「間違いではありません。お誓さん、しかし、ただ、道も一条《ひとすじ》の上だとしたら、家を起す――血統を絶やさない、真に立派な覚悟だけれど、……本当は女一人だとすると、どうしていいか、それは、学者でも、教育家でも、たとえばお寺の坊さんでも、実地に当ると、八衢《やちまた》に前途《ゆくて》が岐《わか》れて、道しるべをする事はむずかしい……世の中になったんですね。」
「まったくですわ。でも、それも、まだ月日は長し……昨日《きのう》や今日の事とは思わなかったんですのに
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