ただけで、無事に助かった。旦那はまず不具《かたわ》だ。巣を見るばかりで、その祟《たた》りは、と内証《ないしょ》で声をひそめて、老巫女《おいみこ》に伺《うかがい》を立てた。されば、明神様の思召《おぼしめ》しは、鉄砲は避《よ》けもされる。また眷属《けんぞく》が怪我《けが》に打たれまいものではない。――御殿の閨《ねや》を覗《のぞ》かれ、あまつさえ、帳《とばり》の奥のその奥の産屋を――おみずからではあるまいが――お煩《うるさ》い……との事である。
要するに、御堂の女神は、鉄砲より、研究がおきらいなのである。――
「――万事、その気でござらっしゃれよ。」
「勿論です――」
が、まだその上にも、銑吉を一人で御堂へ行《ゆ》かせるのは、気づかいらしくもあり、好もしくない様子が見えた。すなわち明神の祠《ほこら》へは、孫八爺さんが一所に行こうという。銑吉とても、ただ怯《おど》かしばかりでもなさそうな、秘密と、奇異と、第一、人気のまるでないその祠に、入口に懸《かか》った薙刀《なぎなた》を思うと、掛釘が錆朽《さびく》ちていまいものでもなし、控えの綱など断切れていないと限らない。同行はむしろ便宜であったが。
さて、旧街道を――庫裡《くり》を一廻り、寺の前から――路を埋《うず》めた浅茅《あさじ》を踏んで、横切って、石段下のたらたら坂《ざか》を昇りかかった時であった。明神の森とは、山波をつづけて、なだらかに前《もと》来た片原の町はずれへ続く、それを斜《ななめ》に見上げる、山の端《は》高き青芒《あおすすき》、蕨《わらび》の広葉の茂った中へ、ちらりと出た……さあ、いくつぐらいだろう、女の子の紅《あか》い帯が、ふと紅《もみ》の袴《はかま》のように見えたのも稀有《けう》であった、が、その下ななめに、草堤《くさどて》を、田螺《たにし》が二つ並んで、日中《ひなか》の畝《あぜ》うつりをしているような人影を見おろすと、
「おん爺《じ》いええ。」
と野へ響く、広く透《とお》った声で呼んだ。
貝の尖《さき》の白髪《しらが》の田螺が、
「おお。」
「爺《じ》ン爺《じ》いよう。」
「……爺ン爺い、とこくわ――おおよ。」
「媼《ば》ン媼《ば》が、なあえ、すぐに帰って、ござれとよう。」
「酒でも餅でもあんめえが、……やあ。」
「知らねえよう。」
「客人と、やい、明神様詣るだと、言うだあよう。」
「何《あん》でも帰れ、とよう。媼ン媼が言うだがええ。」
なぜか、その女の子、その声に、いや、その言托《ことづけ》をするものに、銑吉さえ一種の威のあるのを感じた。
「そんでは、旦那。」
白髪の田螺は、麦稈帽《むぎわらぼう》の田螺に、ぼつりと分れる。
二
「――何だ、薙刀《なぎなた》というのは、――絵馬の画《え》――これか。」
あの、爺い。口さきで人を薙刀に掛けたな。銑吉は御堂の格子を入って、床の右横の破欄間《やれらんま》にかかった、絵馬を視《み》て、吻《ほっ》と息を吐《つ》きつつ微笑《ほほえ》んだ。
しかし、一口に絵馬とはいうが、入念《じゅねん》の彩色《さいしき》、塗柄の蒔絵《まきえ》に唐草さえある。もっとも年数のほども分らず、納《おさめ》ぬしの文字などは見分けがつかない。けれども、塗柄を受けた服紗《ふくさ》のようなものは、紗綾《さや》か、緞子《どんす》か、濃い紫をその細工ものに縫込んだ。
武器は武器でも、念流、一刀流などの猛者《もさ》の手を経たものではない。流儀の名の、静《しずか》も優しい、婦人の奉納に違いない。
眉も胸も和《なごやか》になった。が、ここへ来て彳《たたず》むまで、銑吉は実は瞳を据え、唇を緊《し》めて、驚破《すわ》といわばの気構《きがまえ》をしたのである。何より聞怯《ききお》じをした事は、いささかたりとも神慮に背くと、静流《しずかりゅう》がひらめくとともに、鼻を殺《そ》がるる、というのである。
これは、生命《いのち》より可恐《おそろし》い。むかし、悪性《あくしょう》の唐瘡《とうがさ》を煩ったものが、厠《かわや》から出て、嚔《くしゃみ》をした拍子に、鼻が飛んで、鉢前をちょろちょろと這った、二十三夜講の、前《さき》の話を思出す。――その鼻の飛んだ時、キャッと叫ぶと、顔の真中《まんなか》へ舌が出て、もげた鼻を追掛《おっか》けたというのである。鳥博士のは凍傷と聞いたが、結果はおなじい。
鼻をそがれて、顔の真中へ舌が出たのでは、二度と東京が見られない。第一汽車に乗せなかろう。
草生《くさおい》の坂を上る時は、日中《ひなか》三時さがり、やや暑さを覚えながら、幾度も単衣《ひとえ》の襟を正した。
銑吉は、寺を出る時、羽織を、観世音の御堂に脱いで、着流しで扇を持った。この形は、さんげ、さんげ、金剛杖《こうごうづえ》で、お山に昇る力もなく、登山靴で、
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