》なる、乳首の深秘は、幽《かすか》に雪間の菫《すみれ》を装い、牡丹冷やかにくずれたのは、その腹帯の結びめを、伏目に一目、きりきりと解きかけつつ、
「畜生……」
 と云った、女の声とともに、谺《こだま》が冴えて、銃が響いた。
 小県は草に、伏《ふせ》の構《かまえ》を取った。これは西洋において、いやこの頃は、もっと近くで行《や》るかも知れない……爪さきに接吻《キス》をしようとしたのではない。ものいう間《ま》もなし、お誓を引倒して、危難を避けさせようとして、且つ及ばなかったのである。
 その草伏《くさぶし》の小県の目に、お誓の姿が――峰を抽《ぬ》いて、高く、金色《こんじき》の夕日に聳《そばだ》って見えた。斉《ひと》しく、野の燃ゆるがごとく煙って、鼻の尖《とが》った、巨《おおい》なる紳士が、銃を倒す、と斉しく、ヘルメット帽を脱いで、高くポンと空へ投げて、拾って、また投げて、落ちると、宙に受けて、また投《なげ》るのを視た。足でなく、頭で雀躍《こおどり》したのである。たちまち、法衣《ころも》を脱ぎ、手早く靴を投ると、勢《いきおい》よく沼へ入った。
 続いて、赤少年が三人泳ぎ出した。
 中心へ近づくままに、掻《か》く手の肱《ひじ》の上へ顕《あら》われた鼻の、黄色に青みを帯び、茸《きのこ》のくさりかかったような面《おもて》を視た。水に拙《つたな》いのであろう。喘《あえ》ぐ――しかむ、泡を噴く。が、あるいは鳥に対する隠形《おんぎょう》の一術《ひとて》であろうも計られぬ。
「ばか。」
 投棄てるようにいうとともに、お誓はよろよろと倒れて、うっとりと目を閉じた。
 早く解いて流した紅《くれない》の腹帯は、二重三重にわがなって、大輪の花のようなのを、もろ翼《は》を添えて、白鷺が、すれすれに水を切って、鳥旦那の来《きた》り迫る波がしらと直線に、水脚を切って行《ゆ》く。その、花片《はなびら》に、いやその腹帯の端に、キラキラと、虫が居て、青く光った。
 鼻を仰向け、諸手《もろて》で、腹帯を掴《つか》むと、紳士は、ずぶずぶと沼に潜った。次に浮きざまに飜《ひるがえ》った帯は、翼かと思う波を立てて消え、紳士も沈んだ。三個の赤い少年も、もう影もない。
 ただ一人、水に入ろうとする、ずんぐりものの色の黒い少年を、その諸足を取って、孫八|爺《じい》が押えたのが見える。押えられて、手を突込《つっこ》んだから、
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