るほどの事さえも果さないうちに、昨年の夏、梅水が富士の裾野へ暑中の出店をして、避暑かたがた、お誓がその店を預ったのを知っただけで、この時まで、その消息を知らなかった次第なのである。……
その暑中の出店が、日光、軽井沢などだったら、雲のゆききのゆかりもあろう。ここは、関屋を五里六里、山路《やまみち》、野道を分入った僻村《へきそん》であるものを。――
――実は、銑吉は、これより先き、麓《ふもと》の西明寺の庫裡《くり》の棚では、大木魚の下に敷かれた、女持の提紙入《ハンドバック》を見たし、続いて、准胝観音《じゅんでいかんのん》の御廚子《みずし》の前に、菩薩が求児擁護《ぐうじようご》の結縁《けちえん》に、紅白の腹帯を据えた三方に、置忘れた紫の女|扇子《おうぎ》の銀砂子《ぎんすなご》の端《はし》に、「せい」としたのを見て、ぞっとした時さえ、ただ遥《はるか》にその人の面影をしのんだばかりであったのに。
かえって、木魚に圧《お》された提紙入には、美女の古寺の凌辱《りょうじょく》を危《あやぶ》み、三方の女扇子には、姙娠の婦人《おんな》の生死《しょうし》を懸念して、別に爺さんに、うら問いもしたのであったが、爺さんは、耳をそらし、口を避けて、色ある二品《ふたしな》のいわれに触れるのさえ厭《いと》うらしいので、そのまま黙した事実があった。
ただ、あだには見過し難《がた》い、その二品に対する心ゆかしと、帰路《かえり》には必ず立寄るべき心のしるしに、羽織を脱いで、寺にさし置いた事だけを――言い添えよう。
いずれにしても、ここで、そのお誓に逢おうなどとは……譬《たとえ》にこまった……間に合わせに、されば、箱根で田沢湖を見たようなものである。
三
「――余り不思議です。お誓さん、ほんとのお誓さんなら、顔を見せて下さい、顔を……こっちを向いて、」
ほとんど樹の枝に乗った位置から、おのずと出る声の調子に、小県は自分ながら不気味を感じた。
きれぎれに、
「お恥かしくって、そちらが向けないほどなんですもの。」
泣声だし、唇を含んでかすれたが、まさか恥かしいという顔に異状はあるまい。およそ薙刀を閃《ひら》めかして薙《な》ぎ伏せようとした当の敵に対して、その身構えが、背後《うしろ》むきになって、堂の縁を、もの狂わしく駆廻ったはおろか、いまだに、振向いても見ないで、胸を、腹部を
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