戒《さいかい》がなければならぬ。奥の大巌《おおいわ》の中腹に、祠が立って、恭《うやうや》しく斎《いつ》き祭った神像は、大深秘で、軽々しく拝まれない――だから、参った処で、その効《かい》はあるまい……と行《ゆ》くのを留めたそうな口吻《くちぶり》であった。
「ごく内々の事でがすがなす、明神様のお姿というのはなす。」
時に、勿体ないが、大破落壁した、この御堂の壇に、観音の緑髪、朱唇《しゅしん》、白衣《びゃくえ》、白木彫《しらきぼり》の、み姿の、片扉金具の抜けて、自《おのず》から開いた廚子から拝されて、誰《た》が捧げたか、花瓶の雪の卯の花が、そのまま、御袖《みそで》、裳《もすそ》に紛《まが》いつつ、銑吉が参らせた蝋燭《ろうそく》の灯に、格天井《ごうてんじょう》を漏る昼の月影のごとく、ちらちらと薄青く、また金色《こんじき》の影がさす。
「なす、この観音様に、よう似てござらっしゃる、との事でなす。」……
ただこの観世音の麗相を、やや細面にして、玉の皓《しろ》きがごとく、そして御髪《みぐし》が黒く、やっぱり唇は一点の紅である。
その明神は、白鷺の月冠をめしている。白衣で、袴《はかま》は、白とも、緋《ひ》ともいうが、夜の花の朧《おぼろ》と思え。……
どの道、巌《いわお》の奥殿の扉を開くわけには行かないのだから、偏《ひとえ》に観世音を念じて、彼処《かしこ》の面影を偲《しの》べばよかろう。
爺さんは、とかく、手に取れそうな、峰の堂――絵馬の裡《なか》へ、銑吉を上らせまいとするのである。
第一|可恐《おそろし》いのは、明神の拝殿の蔀《しとみ》うち、すぐの承塵《なげし》に、いつの昔に奉納したのか薙刀《なぎなた》が一振《ひとふり》かかっている。勿論誰も手を触れず、いつ研いだ事もないのに、切味《きれあじ》の鋭さは、月の影に翔込《かけこ》む梟《ふくろう》、小春日になく山鳩は構いない。いたずらものの野鼠は真二つになって落ち、ぬたくる蛇は寸断《ずたずた》になって蠢《うごめ》くほどで、虫、獣《けだもの》も、今は恐れて、床、天井を損わない。
人間なりとて、心柄によっては無事では済まない。かねて禁断であるものを、色に盲《めし》いて血気な徒が、分別を取はずし、夜中、御堂へ、村の娘を連込んだものがあった。隔ての帳《とばり》も、簾《すだれ》もないのに――
――それが、何と、明《あかる》い月夜よ。
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