ともそれを心あてに、頼む。――助けて――助けて――と幾度《いくたび》か呼びました。けれども、窓一つ、ちらりと燈火《ともしび》の影の漏れて答うる光もありませんでした。聞える筈《はず》もありますまい。
 いまは、ただお米さんと、間に千尺の雪を隔つるのみで、一人死を待つ、……むしろ目を瞑《ねむ》るばかりになりました。
 時に不思議なものを見ました――底《そこひ》なき雪の大空の、なおその上を、プスリと鑿《のみ》で穿《うが》ってその穴から落ちこぼれる……大きさはそうです……蝋燭《ろうそく》の灯の少し大《おおき》いほどな真蒼《まっさお》な光が、ちらちらと雪を染め、染めて、ちらちらと染めながら、ツツと輝いて、その古杉の梢《こずえ》に来て留りました。その青い火は、しかし私の魂がもう藻脱けて、虚空へ飛んで、倒《さかさま》に下の亡骸《なきがら》を覗《のぞ》いたのかも知れません。
 が、その影が映《さ》すと、半ば埋《うも》れた私の身体《からだ》は、ぱっと紫陽花に包まれたように、青く、藍《あい》に、群青《ぐんじょう》になりました。
 この山の上なる峠の茶屋を思い出す――極暑、病気のため、俥《くるま》で越えて、故郷へ帰る道すがら、その茶屋で休んだ時の事です。門も背戸も紫陽花で包まれていました。――私の顔の色も同じだったろうと思う、手も青い。
 何より、嫌な、可恐《おそろし》い雷が鳴ったのです。たださえ破《わ》れようとする心臓に、動悸《どうき》は、破障子《やれしょうじ》の煽《あお》るようで、震える手に飲む水の、水より前《さき》に無数の蚊が、目、口、鼻へ飛込んだのであります。
 その時の苦しさ。――今も。

       三

 白い梢の青い火は、また中空《なかぞら》の渦を映し出す――とぐろを巻き、尾を垂れて、海原のそれと同じです。いや、それよりも、峠で尾根に近かった、あの可恐《おそろし》い雲の峰にそっくりであります。
 この上、雷。
 大雷は雪国の、こんな時に起ります。
 死力を籠《こ》めて、起上ろうとすると、その渦が、風で、ごうと巻いて、捲《ま》きながら乱るると見れば、計知《はかりし》られぬ高さから颯《さっ》と大滝を揺落《ゆりおと》すように、泡沫《あわ》とも、しぶきとも、粉とも、灰とも、針とも分かず、降埋《ふりうず》める。
「あっ。」
 私はまた倒れました。
 怪火《あやしび》に映る、その大滝の雪は、目の前なる、ズツンと重い、大《おおき》な山の頂から一雪崩《ひとなだ》れに落ちて来るようにも見えました。
 引挫《ひっし》がれた。
 苦痛の顔の、醜さを隠そうと、裏も表も同じ雪の、厚く、重い、外套《がいとう》の袖を被《かぶ》ると、また青い火の影に、紫陽花の花に包まれますようで、且つ白羽二重の裏に薄萌黄《うすもえぎ》がすッと透《とお》るようでした。
 ウオオオオ!
 俄然《がぜん》として耳を噛《か》んだのは、凄《すご》く可恐《おそろし》い、且つ力ある犬の声でありました。
 ウオオオオ!
 虎の嘯《うそぶ》くとよりは、竜の吟ずるがごとき、凄烈《せいれつ》悲壮な声であります。
 ウオオオオ!
 三声を続けて鳴いたと思うと……雪をかついだ、太く逞《たくま》しい、しかし痩《や》せた、一頭の和犬、むく犬の、耳の青竹をそいだように立ったのが、吹雪の滝を、上の峰から、一直線に飛下りたごとく思われます。たちまち私の傍《そば》を近々と横ぎって、左右に雪の白泡《しらあわ》を、ざっと蹴立《けた》てて、あたかも水雷艇の荒浪を切るがごとく猛然として進みます。
 あと、ものの一町ばかりは、真白《まっしろ》な一条の路が開けました。――雪の渦が十オばかりぐるぐると続いて行《ゆ》く。……
 これを反対にすると、虎杖の方へ行《ゆ》くのであります。
 犬のその進む方は、まるで違った道でありました。が、私は夢中で、そのあとに続いたのであります。
 路は一面、渺々《びょうびょう》と白い野原になりました。
 が、大犬の勢《いきおい》は衰えません。――勿論、行《ゆ》くあとに行くあとに道が開けます。渦が続いて行く……
 野の中空を、雪の翼を縫って、あの青い火が、蜿々《うねうね》と蛍のように飛んで来ました。
 真正面《まっしょうめん》に、凹字形《おうじけい》の大《おおき》な建ものが、真白《まっしろ》な大軍艦のように朦朧《もうろう》として顕《あらわ》れました。と見ると、怪し火は、何と、ツツツと尾を曳《ひ》きつつ、先へ斜《ななめ》に飛んで、その大屋根の高い棟なる避雷針の尖端《とったん》に、ぱっと留って、ちらちらと青く輝きます。
 ウオオオオオ
 鉄づくりの門の柱の、やがて平地と同じに埋《うず》まった真中《まんなか》を、犬は山を乗るように入ります。私は坂を越すように続きました。
 ドンと鳴って、犬の頭突《ずつ》きに
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