《め》ばかりぱち/\させて、鐘《かね》の音《ね》も聞《きこ》えぬのを、徒《いたづら》に指《ゆび》を折《を》る、寂々《しん/\》とした板戸《いたど》の外《そと》に、ばさりと物音《ものおと》。
民子《たみこ》は樹《き》を辷《すべ》つた雪《ゆき》のかたまりであらうと思《おも》つた。
しばらくして又《また》ばさりと障《さは》つた、恁《かゝ》る時《とき》、恁《かゝ》る山家《やまが》に雪《ゆき》の夜半《よは》、此《こ》の音《おと》に恐氣《おぢけ》だつた、婦人氣《をんなぎ》はどんなであらう。
富藏《とみざう》は疑《うたが》はないでも、老夫婦《らうふうふ》の心《こゝろ》は分《わか》つて居《ゐ》ても、孤家《ひとつや》である、この孤家《ひとつや》なる言《ことば》は、昔語《むかしがたり》にも、お伽話《とぎばなし》にも、淨瑠璃《じやうるり》にも、ものの本《ほん》にも、年紀《とし》今年《ことし》二十《はたち》になるまで、民子《たみこ》の耳《みゝ》に入《はひ》つた響《ひゞ》きに、一《ひと》ツとして、悲慘《ひさん》悽愴《せいさう》の趣《おもむき》を今《いま》爰《こゝ》に囁《さゝや》き告《つ》ぐる、材料《ざいれう》でないのはない。
呼吸《いき》を詰《つ》めて、なほ鈴《すゞ》のやうな瞳《ひとみ》を凝《こら》せば、薄暗《うすぐら》い行燈《あんどう》の灯《ひ》の外《ほか》、壁《かべ》も襖《ふすま》も天井《てんじやう》も暗《くらが》りでないものはなく、雪《ゆき》に眩《くる》めいた目《め》には一《ひと》しほで、ほのかに白《しろ》いは我《われ》とわが、俤《おもかげ》に立《た》つ頬《ほゝ》の邊《あたり》を、確乎《しつか》とおさへて枕《まくら》ながら幽《かすか》にわなゝく小指《こゆび》であつた。
あなわびし、うたてくもかゝる際《さい》に、小用《こよう》がたしたくなつたのである。
もし。ふるへ聲《ごゑ》で又《また》、
もし/\と、二聲《ふたこゑ》三聲《みこゑ》呼《よ》んで見《み》たが、目《め》ざとい老人《らうじん》も寐入《ねいり》ばな、分《わ》けて、罪《つみ》も屈託《くつたく》も、山《やま》も町《まち》も何《なん》にもないから、雪《ゆき》の夜《よ》に靜《しづ》まり返《かへ》つて一層《いつそう》寐心《ねごころ》の好《よ》ささうに、鼾《いびき》も聞《きこ》えずひツそりして居《ゐ》る。
堪《たま》りかねて、民子《たみこ》は密《そつ》と起《お》き直《なほ》つたが、世話《せわ》になる身《み》の遠慮深《ゑんりよぶか》く、氣味《きみ》が惡《わる》いぐらゐには家《いへ》のぬし起《おこ》されず、其《その》まゝ突臥《つゝぷ》して居《ゐ》たけれども、さてあるべきにあらざれば、恐々《こは/″\》行燈《あんどう》を引提《ひつさ》げて、勝手《かつて》は寢《ね》しなに聞《き》いて置《お》いた、縁側《えんがは》について出《で》ようとすると、途絶《とだ》えて居《ゐ》たのが、ばたりと當《あた》ツて、二三|度《ど》續《つゞ》けさまにばさ、ばさ、ばさ。
はツと唾《つば》をのみ、胸《むね》を反《そら》して退《すさ》つたが、やがて思切《おもひき》つて用《よう》を達《た》して出《で》るまでは、まづ何事《なにごと》もなかつた處《ところ》。
手《て》を洗《あら》はうとする時《とき》は、民子《たみこ》は殺《ころ》されると思《おも》つたのである。
雨戸《あまど》を一|枚《まい》ツト開《あ》けると、直《たゞ》ちに、東西南北《とうざいなんぼく》へ五|里《り》十|里《り》の眞白《まつしろ》な山《やま》であるから。
如何《いか》なることがあらうも知《し》れずと、目《め》を瞑《ねむ》つて、行燈《あんどう》をうしろに差置《さしお》き、わなゝき/\柄杓《ひしやく》を取《と》つて、埋《う》もれた雪《ゆき》を拂《はら》ひながら、カチリとあたる水《みづ》を灌《そゝ》いで、投《な》げるやうに放《はな》したトタン、颯《さつ》とばかり雪《ゆき》をまいて、ばつさり飛込《とびこ》んだ一個《いつこ》の怪物《くわいぶつ》。
民子《たみこ》は思《おも》はずあツといつた。
夫婦《ふうふ》はこれに刎起《はねお》きたが、左右《さいう》から民子《たみこ》を圍《かこ》つて、三人《さんにん》六《むつ》の目《め》を注《そゝ》ぐと、小暗《をぐら》き方《かた》に蹲《うづくま》つたのは、何《なに》ものかこれ唯《たゞ》一|羽《は》の雁《かり》なのである。
老人《らうじん》は口《くち》をあいて笑《わら》ひ、いや珍《めづら》しくもない、まゝあること、俄《にはか》の雪《ゆき》に降籠《ふりこ》められると、朋《とも》に離《はな》れ、塒《ねぐら》に迷《まよ》ひ、行方《ゆくへ》を失《うしな》ひ、食《じき》に饑《う》ゑて、却《かへ》つて人《ひと》に懷《なづ》き寄《よ》る、これは獵師《れふし》も憐《あはれ》んで、生命《いのち》を取《と》らず、稗《ひえ》、粟《あは》を與《あた》へて養《やしな》ふ習《ならひ》と、仔細《しさい》を聞《き》けば、所謂《いわゆる》窮鳥《きうてう》懷《ふところ》に入《い》つたるもの。
翌日《あくるひ》も降《ふ》り止《や》まず、民子《たみこ》は心《こゝろ》も心《こゝろ》ならねど、神佛《かみほとけ》とも思《おも》はるゝ老《おい》の言《ことば》に逆《さか》らはず、二日《ふつか》三日《みつか》は宿《やど》を重《かさ》ねた。
其夜《そのよ》の雁《かり》も立去《たちさ》らず、餌《ゑ》にかはれた飼鳥《かひどり》のやう、よくなつき、分《わ》けて民子《たみこ》に慕《した》ひ寄《よ》つて、膳《ぜん》の傍《かたはら》に羽《はね》を休《やす》めるやうになると、はじめに生命《いのち》がけ恐《おそろ》しく思《おも》ひしだけ、可愛《かはい》さは一入《ひとしほ》なり。つれ/″\には名《な》を呼《よ》んで、翼《つばさ》を撫《な》でもし、膝《ひざ》に抱《だ》きもし、頬《ほゝ》もあて、夜《よる》は衾《ふすま》に懷《ふところ》を開《ひら》いて、暖《あたゝか》い玉《たま》の乳房《ちぶさ》の間《あひだ》に嘴《はし》を置《お》かせて、すや/\と寐《ね》ることさへあつたが、一夜《あるよ》、凄《すさま》じき寒威《かんい》を覺《おぼ》えた。あけると凍《い》てて雪車《そり》が出《で》る、直《すぐ》に發足《ほつそく》。
老人夫婦《らうじんふうふ》に別《わかれ》を告《つ》げつつ、民子《たみこ》は雁《かり》にも殘惜《のこりを》しいまで不便《ふびん》であつたなごりを惜《をし》んだ。
神《かみ》の使《つかひ》であつたらう、この鳥《とり》がないと、民子《たみこ》は夫《をつと》にも逢《あ》へず、其《そ》の看護《みとり》も出來《でき》ず、且《か》つやがて大尉《たいゐ》に昇進《しようしん》した少尉《せうゐ》の榮《さかえ》を見《み》ることもならず、與曾平《よそべい》の喜顏《よろこびがほ》にも、再會《さいくわい》することが出來《でき》なかつたのである。
民子《たみこ》をのせて出《で》た雪車《そり》は、路《みち》を辷《すべ》つて、十三|谷《や》といふ難所《なんしよ》を、大切《たいせつ》な客《きやく》ばかりを千尋《ちひろ》の谷底《たにそこ》へ振《ふ》り落《おと》した、雪《ゆき》ゆゑ怪我《けが》はなかつたが、落込《おちこ》んだのは炭燒《すみやき》の小屋《こや》の中《なか》。
五助《ごすけ》。
權九郎《ごんくらう》。
といふ、兩名《りやうめい》の炭燒《すみやき》が、同一《おなじ》雪籠《ゆきごめ》に會《あ》つて封《ふう》じ込《こ》められたやうになり、二日《ふつか》三日《みつか》は貯蓄《たくはへ》もあつたが、四日目《よつかめ》から、粟《あは》一粒《ひとつぶ》も口《くち》にしないで、熊《くま》の如《ごと》き荒漢等《あらをのこら》、山狗《やまいぬ》かとばかり痩《や》せ衰《おとろ》へ、目《め》を光《ひか》らせて、舌《した》を噛《か》んで、背中合《せなかあは》せに倒《たふ》れたまゝ、唸《うめ》く聲《こゑ》さへ幽《かすか》な處《ところ》、何《なに》、人間《にんげん》なりとて容赦《ようしや》すべき。
帶《おび》を解《と》き、衣《きぬ》を剥《は》ぎ、板戸《いたど》の上《うへ》に縛《いまし》めた、其《そ》のありさまは、こゝに謂《い》ふまい。立處《たちどころ》其《そ》の手足《てあし》を炙《あぶ》るべく、炎々《えん/\》たる炭火《すみび》を熾《おこ》して、やがて、猛獸《まうじう》を拒《ふせ》ぐ用意《ようい》の、山刀《やまがたな》と斧《をの》を揮《ふる》つて、あはや、其《その》胸《むね》を開《ひら》かむとなしたる處《ところ》へ、神《かみ》の御手《みて》の翼《つばさ》を擴《ひろ》げて、其《その》膝《ひざ》、其《その》手《て》、其《その》肩《かた》、其《その》脛《はぎ》、狂《くる》ひまつはり、搦《から》まつて、民子《たみこ》の膚《はだ》を蔽《おほ》うたのは、鳥《とり》ながらも心《こゝろ》ありけむ、民子《たみこ》の雪車《そり》のあとを慕《した》うて、大空《おほぞら》を渡《わた》つて來《き》た雁《かり》であつた。
瞬《またゝ》く間《ま》に、雁《かり》は炭燒《すみやき》に屠《ほふ》られたが、民子《たみこ》は微傷《かすりきず》も受《う》けないで、完《まつた》き璧《たま》の泰《やす》らかに雪《ゆき》の膚《はだへ》は繩《なは》から拔《ぬ》けた。
渠等《かれら》は敢《あへ》て鬼《おに》ではない、食《じき》を得《え》たれば人心地《ひとごこち》になつて、恰《あたか》も可《よ》し、谷間《たにあひ》から、いたはつて、負《おぶ》つて世《よ》に出《で》た。
底本:「鏡花全集 卷六」岩波書店
1941(昭和16)年11月10日第1刷発行
1974(昭和49)年4月2日第2刷発行
入力:土屋隆
校正:門田裕志
2005年10月28日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全3ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング