、大根《だいこん》も引《ひ》く、屋根《やね》も葺《ふ》く、水《みづ》も汲《く》めば米《こめ》も搗《つ》く、達者《たつしや》なればと、この老僕《おやぢ》を擇《えら》んだのが、大《おほい》なる過失《くわしつ》になつた。
 いかに息災《そくさい》でも既《すで》に五十九、あけて六十にならうといふのが、内《うち》でこそはくる/\※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]《まは》れ、近頃《ちかごろ》は遠路《とほみち》の要《えう》もなく、父親《ちゝおや》が本《ほん》を見《み》る、炬燵《こたつ》の端《はし》を拜借《はいしやく》し、母親《はゝおや》が看經《かんきん》するうしろから、如來樣《によらいさま》を拜《をが》む身分《みぶん》、血《ち》の氣《け》の少《すく》ないのか、とやかくと、心遣《こゝろづか》ひに胸《むね》を騷《さわ》がせ、寒《さむ》さに骨《ほね》を冷《ひや》したれば、忘《わす》れて居《ゐ》た持病《ぢびやう》がこゝで、生憎《あいにく》此時《このとき》。
 雪《ゆき》は小止《をやみ》もなく降《ふ》るのである、見《み》る/\内《うち》に積《つも》るのである。
 大勢《おほぜい》が寄《よ》つて集《たか》り、民子《たみこ》は取縋《とりすが》るやうにして、介抱《かいほう》するにも、藥《くすり》にも、ありあはせの熊膽《くまのゐ》位《くらゐ》、其《それ》でも心《こゝろ》は通《つう》じたか、少《すこ》しは落着《おちつ》いたから一刻《いつこく》も疾《はや》くと、再《ふたゝ》び腕車《くるま》を立《た》てようとすれば、泥除《どろよけ》に噛《かじ》りつくまでもなく、與曾平《よそべい》は腰《こし》を折《を》つて、礑《はた》と倒《たふ》れて、顏《かほ》の色《いろ》も次第《しだい》に變《かは》り、之《これ》では却《かへ》つて足手絡《あしてまと》ひ、一式《いつしき》の御恩《ごおん》報《はう》じ、此《こ》のお供《とも》をと想《おも》ひましたに、最《も》う叶《かな》はぬ、皆《みんな》で首《くび》を縊《し》めてくれ、奧樣《おくさま》私《わし》を刺殺《さしころ》して、お心懸《こゝろがかり》のないやうに願《ねが》ひまする。おのれやれ、死《し》んで鬼《おに》となり、無事《ぶじ》に道中《だうちう》はさせませう、魂《たましひ》が附添《つきそ》つて、と血狂《ちくる》ふばかりに急《あせ》るほど、弱《よわ》るは老《おい》の身體《からだ》にこそ。
 口々《くち/″\》に押宥《おしなだ》め、民子《たみこ》も切《せつ》に慰《なぐさ》めて、お前《まへ》の病氣《びやうき》を看護《みと》ると謂《い》つて此處《こゝ》に足《あし》は留《と》められぬ。棄《す》てゝ行《ゆ》くには忍《しの》びぬけれども、鎭守府《ちんじゆふ》の旦那樣《だんなさま》が、呼吸《いき》のある内《うち》一目《ひとめ》逢《あ》ひたい、私《わたし》の心《こゝろ》は察《さつ》しておくれ、とかういふ間《ま》も心《こゝろ》は急《せ》く、峠《たうげ》は前《まへ》に控《ひか》へて居《ゐ》るし、爺《ぢい》や!
 もし奧樣《おくさま》。
 と土間《どま》の端《はし》までゐざり出《い》でて、膝《ひざ》をついて、手《て》を合《あは》すのを、振返《ふりかへ》つて、母衣《ほろ》は下《お》りた。
 一|臺《だい》の腕車《わんしや》二|人《にん》の車夫《しやふ》は、此《こ》の茶店《ちやみせ》に留《とゞ》まつて、人々《ひと/″\》とともに手當《てあて》をし、些《ちつ》とでもあがきが着《つ》いたら、早速《さつそく》武生《たけふ》までも其日《そのひ》の内《うち》に引返《ひつかへ》すことにしたのである。
 民子《たみこ》の腕車《くるま》も二人《ふたり》がかり、それから三|里半《りはん》だら/\のぼりに、中空《なかぞら》に聳《そび》えたる、春日野峠《かすがのたうげ》にさしかゝる。
 ものの半道《はんみち》とは上《のぼ》らないのに、車《くるま》の齒《は》の軋《きし》り強《つよ》く、平地《ひらち》でさへ、分《わ》けて坂《さか》、一|分間《ぷんかん》に一|寸《すん》づゝ、次第《しだい》に雪《ゆき》が嵩《かさ》増《ま》すので、呼吸《いき》を切《き》つても、もがいても、腕車《くるま》は一|歩《ぽ》も進《すゝ》まずなりぬ。
 前《まへ》なるは梶棒《かぢぼう》を下《おろ》して坐《すわ》り、後《あと》なるは尻餅《しりもち》ついて、御新造《ごしんぞ》さん、とても[#「とても」に傍点]と謂《い》ふ。
 大方《おほかた》は恁《か》くあらむと、期《ご》したることとて、民子《たみこ》も豫《あらかじ》め覺悟《かくご》したから、茶店《ちやみせ》で草鞋《わらぢ》を穿《は》いて來《き》たので、此處《こゝ》で母衣《ほろ》から姿《すがた》を顯《あらは》し、山路《やまぢ》の雪《ゆき》に下立《おりた》つと、早《は》や其《そ》の爪先《つまさき》は白《しろ》うなる。
 下坂《くだりざか》は、動《うごき》が取《と》れると、一|名《めい》の車夫《しやふ》は空車《から》を曳《ひ》いて、直《す》ぐに引返《ひつかへ》す事《こと》になり、梶棒《かぢぼう》を取《と》つて居《ゐ》たのが、旅鞄《たびかばん》を一個《ひとつ》背負《しよ》つて、之《これ》が路案内《みちあんない》で峠《たうげ》まで供《とも》をすることになつた。
 其《そ》の鐵《てつ》の如《ごと》き健脚《けんきやく》も、雪《ゆき》を踏《ふ》んではとぼ/\しながら、前《まへ》へ立《た》つて足《あし》あとを印《いん》して上《のぼ》る、民子《たみこ》はあとから傍目《わきめ》も觸《ふ》らず、攀《よ》ぢ上《のぼ》る心細《こゝろぼそ》さ。
 千山《せんざん》萬岳《ばんがく》疊々《てふ/″\》と、北《きた》に走《はし》り、西《にし》に分《わか》れ、南《みなみ》より迫《せま》り、東《ひがし》より襲《おそ》ふ四圍《しゐ》たゞ高《たか》き白妙《しろたへ》なり。
 さるほどに、山《やま》又《また》山《やま》、上《のぼ》れば峰《みね》は益《ます/\》累《かさな》り、頂《いたゞき》は愈々《いよ/\》聳《そび》えて、見渡《みわた》せば、見渡《みわた》せば、此處《こゝ》ばかり日《ひ》の本《もと》を、雪《ゆき》が封《ふう》ずる光景《ありさま》かな。
 幸《さいはひ》に風《かぜ》が無《な》く、雪路《ゆきみち》に譬《たと》ひ山中《さんちう》でも、然《さ》までには寒《さむ》くない、踏《ふ》みしめるに力《ちから》の入《い》るだけ、却《かへ》つて汗《あせ》するばかりであつたが、裾《すそ》も袂《たもと》も硬《こは》ばるやうに、ぞつと寒《さむ》さが身《み》に迫《せま》ると、山々《やま/\》の影《かげ》がさして、忽《たちま》ち暮《くれ》なむとする景色《けしき》。あはよく峠《たうげ》に戸《と》を鎖《とざ》した一|軒《けん》の山家《やまが》の軒《のき》に辿《たど》り着《つ》いた。
 さて奧樣《おくさま》、目當《めあて》にいたして參《まゐ》つたは此《こ》の小家《こいへ》、忰《せがれ》は武生《たけふ》に勞働《はたらき》に行《い》つて居《を》り、留守《るす》は山《やま》の主《ぬし》のやうな、爺《ぢい》と婆《ばゞ》二人《ふたり》ぐらし、此處《こゝ》にお泊《とま》りとなさいまし、戸《と》を叩《たゝ》いてあけさせませう。また彼方此方《あつちこち》五六|軒《けん》立場茶屋《たてばぢやや》もござりますが、美《うつく》しい貴女《あなた》さま、唯《たつた》お一人《ひとり》、預《あづ》けまして、安心《あんしん》なは、此《こ》の外《ほか》にござりませぬ。武生《たけふ》の富藏《とみざう》が受合《うはあ》ひました、何《なん》にしろお泊《とま》んなすつて、今夜《こんや》の樣子《やうす》を御覽《ごらう》じまし。此《こ》の雪《ゆき》の止《や》むか止《や》まぬかが勝負《しようぶ》でござります。もし留《や》みませぬと、迚《とて》も路《みち》は通《つう》じません、降《ふり》やんでくれさへすれば、雪車《そり》の出《で》ます便宜《たより》もあります、御存《ごぞん》じでもありませうが、此《こ》の邊《へん》では、雪籠《ゆきごめ》といつて、山《やま》の中《なか》で一夜《いちや》の内《うち》に、不意《ふい》に雪《ゆき》に會《あ》ひますると、時節《じせつ》の來《く》るまで何方《どちら》へも出《で》られぬことになりますから、私《わたくし》は稼人《かせぎにん》、家《うち》に四五|人《にん》も抱《かゝ》へて居《を》ります、萬《まん》に一《ひと》つも、もし、然《さ》やうな目《め》に逢《あ》ひますると、媽々《かゝあ》や小兒《こども》が※[#「月+咢」、第3水準1−90−51]《あご》を釣《つ》らねばなりませぬで、此《こ》の上《うへ》お供《とも》は出來《でき》かねまする。お別《わか》れといたしまして、其處《そこ》らの茶店《ちやみせ》をあけさせて、茶碗酒《ちやわんざけ》をぎうとあふり、其《そ》の勢《いきほひ》で、暗雲《やみくも》に、とんぼを切《き》つて轉《ころ》げるまでも、今日《けふ》の内《うち》に麓《ふもと》まで歸《かへ》ります、とこれから雪《ゆき》の伏家《ふせや》を叩《たゝ》くと、老人夫婦《らうじんふうふ》が出迎《いでむか》へて、富藏《とみざう》に仔細《しさい》を聞《き》くと、お可哀相《かはいさう》のいひつゞけ。
 行先《ゆくさき》が案《あん》じられて、我《われ》にもあらずしよんぼりと、門《と》に彳《たゝず》んで入《はひ》りもやらぬ、媚《なまめか》しい最明寺殿《さいみやうじどの》を、手《て》を採《と》つて招《せう》じ入《い》れて、舁据《かきす》ゑるやうに圍爐裏《ゐろり》の前《まへ》。
 お前《まへ》まあ些《ちつ》と休《やす》んでと、深切《しんせつ》にほだされて、懷《なつか》しさうに民子《たみこ》がいふのを、いゝえ、さうしては居《を》られませぬ、お荷物《にもつ》は此處《こゝ》へ、もし御遠慮《ごゑんりよ》はござりませぬ、足《あし》を投出《なげだ》して、裾《すそ》の方《はう》からお温《ぬくも》りなされませ、忘《わす》れても無理《むり》な路《みち》はなされますな。それぢやとつさん頼《たの》んだぜ、婆《ばあ》さん、いたはつて上《あ》げてくんなせい。
 富藏《とみざう》さんとやら、といつて、民子《たみこ》は思《おも》はず涙《なみだ》ぐむ。
 へい、奧《おく》さま御機嫌《ごきげん》よう、へい、又《また》通《とほ》りがかりにも、お供《とも》の御病人《ごびやうにん》に氣《き》をつけます。あゝ、いかい難儀《なんぎ》をして、おいでなさるさきの旦那樣《だんなさま》も御大病《ごたいびやう》さうな、唯《たゞ》の時《とき》なら橋《はし》の上《うへ》も、欄干《らんかん》の方《はう》は避《よ》けてお通《とほ》りなさらうのに、おいたはしい。お天道樣《てんたうさま》、何分《なにぶん》お頼《たの》み申《まを》しますぜ、やあお天道樣《てんたうさま》といや降《ふ》ることは/\。
 あとに頼《たの》むは老人夫婦《らうじんふうふ》、之《これ》が又《また》、補陀落山《ふだらくさん》から假《かり》にこゝへ、庵《いほり》を結《むす》んで、南無《なむ》大悲《だいひ》民子《たみこ》のために觀世音《くわんぜおん》。
 其《そ》の情《なさけ》で、饑《う》ゑず、凍《こゞ》えず、然《しか》も安心《あんしん》して寢床《ねどこ》に入《はひ》ることが出來《でき》た。
 佗《わび》しさは、食《た》べるものも、着《き》るものも、こゝに斷《ことわ》るまでもない、薄《うす》い蒲團《ふとん》も、眞心《まごころ》には暖《あたゝか》く、殊《こと》に些《ちと》は便《たよ》りにならうと、故《わざ》と佛間《ぶつま》の佛壇《ぶつだん》の前《まへ》に、枕《まくら》を置《お》いてくれたのである。
 心靜《こゝろしづか》に枕《まくら》には就《つ》いたが、民子《たみこ》は何《ど》うして眠《ねむ》られよう、晝《ひる》の疲勞《つかれ》を覺《おぼ》ゆるにつけても、思《おも》ひ遣《や》らるゝ後《のち》の旅《たび》。
 更《ふ》け行《ゆ》く閨《ねや》に聲《こゑ》もなく、凉《すゞ》しい目
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