事が気にかかりますから、それじゃあお分れといたしましょう。あのね、用があったら、そッと私ンとこまでおっしゃいよ。」
 とばかりに渠《かれ》は立ちあがりぬ。予が見送ると目を見合せ、
「小憎らしいねえ。」
 と小戻りして、顔を斜《ななめ》にすかしけるが、
「どれ、あのくらいな御新造様を迷わしたは、どんな顔だ、よく見よう。」
 といいかけて莞爾《にっこ》としつ。つと行《ゆ》く、むかいに跫音《あしおと》して、一行四人の人影見ゆ。すかせば空駕籠釣らせたり。渠等は空しく帰るにこそ。摩耶われを見棄てざりしと、いそいそと立ったりし、肩に手をかけ、下に居《お》らせて、女は前に立塞《たちふさ》がりぬ。やがて近づく渠等の眼より、うたてきわれをば庇《かば》いしなりけり。
 熊笹のびて、薄《すすき》の穂、影さすばかり生《お》いたれば、ここに人ありと知らざる状《さま》にて、道を折れ、坂にかかり、松の葉のこぼるるあたり、目の下近く過《よぎ》りゆく。女はその後を追いたりしを、忍びやかにぞ見たりける。駕籠のなかにものこそありけれ。設《もうけ》の蒲団《ふとん》敷重ねしに、摩耶はあらで、その藤色の小袖のみ薫《かおり》床しく乗せられたり。記念《かたみ》にとて送りけむ。家土産《いえづと》にしたるなるべし。その小袖の上に菊の枝置き添えつ。黒き人影あとさきに、駕籠ゆらゆらと釣持ちたる、可惜《あたら》その露をこぼさずや、大輪《おおりん》の菊の雪なすに、月の光照り添いて、山路に白くちらちらと、見る目|遥《はるか》に下り行《ゆ》きぬ。
 見送り果てず引返して、駈《か》け戻りて枝折戸《しおりど》入《い》りたる、庵のなかは暗かりき。
「唯今《ただいま》!」
 と勢《いきおい》よく框《かまち》に踏懸け呼びたるに、答《いらえ》はなく、衣《きぬ》の気勢《けはい》して、白き手をつき、肩のあたり、衣紋《えもん》のあたり、乳《ち》のあたり、衝立《ついたて》の蔭に、つと立ちて、烏羽玉《うばたま》の髪のひまに、微笑《ほほえ》みむかえし摩耶が顔。筧《かけひ》の音して、叢《くさむら》に、虫鳴く一ツ聞えしが、われは思わず身の毛よだちぬ。
 この虫の声、筧の音、框に片足かけたる、その時、衝立の蔭に人見えたる、われはかつてかかる時、かかることに出会《いであ》いぬ。母上か、摩耶なりしか、われ覚えておらず。夢なりしか、知らず、前《さき》の世のことなりけむ。
[#地から1字上げ]明治三十(一八九七)年七月



底本:「泉鏡花集成3」ちくま文庫、筑摩書房
   1996(平成8)年1月24日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第三卷」岩波書店
   1941(昭和16)年12月25日第1刷発行
初出:「新著月刊」
   1897(明治30)年7月
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2009年3月25日作成
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