は泣いていました。露が閃《きら》めく葉を分けて、明石に透いた素膚《すはだ》を焼くか、と鬼百合が赫《かっ》と紅《あか》い。
その時、峰はずれに、火の矢のように、颯《さっ》と太陽の光が射《さ》した。貴婦人が袖を翳《かざ》して、若い女を庇《かば》いました。……
あの、鬼の面は、昨夜《ゆうべ》、貴下を罵《ののし》るトタンに、婦《おんな》を驚かすまいと思って、夢中で投げたが――驚いたんです、猿ヶ馬場を出はずれる峠の下り口。谷へ出た松の枝に、まるで、一軒家の背戸のその二人を睨《にら》むよう、濶《かっ》と眼《まなこ》を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みひら》いて、紫の緒で、真面《まむき》に引掛《ひっかか》っていたのです。……
お先達、私はどうしたら可《い》いでしょう。」
と溜息《ためいき》を一度に吐《つ》く――
「ふう、」
と一時《いっとき》に返事をして、ややあって、
「鬼神に横道はござらんな。」
と山伏も目を瞬《しばたた》いた。
で、そのまま誓を立てさせては、今時誰も通らぬ山路、半日はよし、一日はよし、三日と経《た》たぬに、飢《うえ》もしよう、渇きもしよう、炎天に曝《さら》されよう。が、旅人があって、幸《さいわい》に通るとすると、それは直ちに犠牲《にえ》になる。自分はよくても、身代りを人にさせる道でない。
心を山伏に語ると、先達も拳《こぶし》を握って、不束《ふつつか》ながら身命に賭けて諸共《もろとも》にその美女《たおやめ》を説いて、悪《あし》き心を飜えさせよう。いざうれ、と清水を浴びる。境も嗽手水《うがいちょうず》して、明王の前に額着《ぬかづ》いて、やがて、相並んで、日を正射《まとも》に、白い、眩《まばゆ》い、峠を望んで進んだ。
雲から吐出されたもののように、坂に突伏《つっぷ》した旅人《りょじん》が一人。
ああ、犠牲《にえ》は代った。
扶《たす》け起こすと、心なき旅人《たびびと》かな。朝がけに禁制の峠を越したのであった。峰では何事もなかったが、坂で、躓《つまず》いて転んだはずみに、あれと喚《わめ》く。膝から股《また》へ真白《まっしろ》な通草《あけび》のよう、さくり切れたは、俗に鎌鼬《かまいたち》が抓《か》けたと言う。間々ある事とか。
先達が担いで引返《ひっかえ》した。
石動の町の医師を託《ことづ》かりながら、三造は、見返りがちに、今は蔓草《つるくさ》の絆《きずな》も断《た》ったろう……その美女《たおやめ》の、山の麓《ふもと》を辿《たど》ったのである。
[#地から1字上げ]明治四十一(一九〇八)年十一月
底本:「泉鏡花集成5」ちくま文庫、筑摩書房
1996(平成8)年2月22日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第十一卷」岩波書店
1941(昭和16)年8月15日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:高柳典子
2007年7月13日作成
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