淀《よど》んで居《ゐ》るのも、夜明《よあけ》に間《ま》のない所爲《せゐ》であらう。墓原《はかはら》へ出《で》たのは十二|時過《じすぎ》、それから、あゝして、あゝして、と此處《こゝ》まで來《き》た間《あひだ》のことを心《こゝろ》に繰返《くりかへ》して、大分《だいぶん》の時間《じかん》が經《た》つたから。
と思《おも》ふ内《うち》に、車《くるま》は自分《じぶん》の前《まへ》、ものの二三|間《げん》隔《へだ》たる處《ところ》から、左《ひだり》の山道《やまみち》の方《はう》へ曲《まが》つた。雪《ゆき》の下《した》へ行《ゆ》くには、來《き》て、自分《じぶん》と摺《す》れ違《ちが》つて後方《うしろ》へ通《とほ》り拔《ぬ》けねばならないのに、と怪《あやし》みながら見ると、ぼやけた色《いろ》で、夜《よる》の色《いろ》よりも少《すこ》し白《しろ》く見《み》えた、車《くるま》も、人《ひと》も、山道《やまみち》の半《なかば》あたりでツイ目《め》のさきにあるやうな、大《おほ》きな、鮮《あざやか》な形《かたち》で、ありのまゝ衝《つ》と消《き》えた。
今《いま》は最《も》う、さつきから荷車《にぐるま》が唯《たゞ》辷《すべ》つてあるいて、少《すこ》しも轣轆《れきろく》の音《おと》の聞《きこ》えなかつたことも念頭《ねんとう》に置《お》かないで、早《はや》く此《こ》の懊惱《あうなう》を洗《あら》ひ流《なが》さうと、一直線《いつちよくせん》に、夜明《よあけ》に間《ま》もないと考《かんが》へたから、人憚《ひとはゞか》らず足早《あしばや》に進《すゝ》んだ。荒物屋《あらものや》の軒下《のきした》の薄暗《うすくら》い處《ところ》に、斑犬《ぶちいぬ》が一|頭《とう》、うしろ向《むき》に、長《なが》く伸《の》びて寢《ね》て居《ゐ》たばかり、事《こと》なく着《つ》いたのは由井《ゆゐ》ヶ濱《はま》である。
碧水金砂《へきすゐきんさ》、晝《ひる》の趣《おもむき》とは違《ちが》つて、靈山《りやうぜん》ヶ崎《さき》の突端《とつぱな》と小坪《こつぼ》の濱《はま》でおしまはした遠淺《とほあさ》は、暗黒《あんこく》の色《いろ》を帶《お》び、伊豆《いづ》の七島《しちたう》も見《み》ゆるといふ蒼海原《あをうなばら》は、さゝ濁《にごり》に濁《にご》つて、果《はて》なくおつかぶさつたやうに堆《うづだか》い水面《すゐめん》は、おなじ色《いろ》に空《そら》に連《つらな》つて居《ゐ》る。浪打際《なみうちぎは》は綿《わた》をば束《つか》ねたやうな白《しろ》い波《なみ》、波頭《なみがしら》に泡《あわ》を立《た》てて、どうと寄《よ》せては、ざつと、おうやうに、重々《おも/\》しう、飜《ひるがへ》ると、ひた/\と押寄《おしよ》せるが如《ごと》くに來《く》る。これは、一|秒《べう》に砂《すな》一|粒《りふ》、幾億萬年《いくおくまんねん》の後《のち》には、此《こ》の大陸《たいりく》を浸《ひた》し盡《つく》さうとする處《ところ》の水《みづ》で、いまも、瞬間《しゆんかん》の後《のち》も、咄嗟《とつさ》のさきも、正《まさ》に然《しか》なすべく働《はたら》いて居《ゐ》るのであるが、自分《じぶん》は餘《あま》り大陸《たいりく》の一端《いつたん》が浪《なみ》のために喰缺《くひか》かれることの疾《はや》いのを、心細《こゝろぼそ》く感《かん》ずるばかりであつた。
妙長寺《めうちやうじ》に寄宿《きしゆく》してから三十|日《にち》ばかりになるが、先《さき》に來《き》た時分《じぶん》とは濱《はま》が著《いちじる》しく縮《ちゞ》まつて居《ゐ》る。町《まち》を離《はな》れてから浪打際《なみうちぎは》まで、凡《およ》そ二百|歩《ほ》もあつた筈《はず》なのが、白砂《しらすな》に足《あし》を踏掛《ふみか》けたと思《おも》ふと、早《は》や爪先《つまさき》が冷《つめた》く浪《なみ》のさきに觸《ふ》れたので、晝間《ひるま》は鐵《てつ》の鍋《なべ》で煮上《にあ》げたやうな砂《すな》が、皆《みな》ずぶ/″\に濡《ぬ》れて、冷《ひやつ》こく、宛然《さながら》網《あみ》の下《した》を、水《みづ》が潛《くゞ》つて寄《よ》せ來《く》るやう、砂地《すなぢ》に立《た》つてても身體《からだ》が搖《ゆら》ぎさうに思《おも》はれて、不安心《ふあんしん》でならぬから、浪《なみ》が襲《おそ》ふとすた/\と後《あと》へ退《の》き、浪《なみ》が返《かへ》るとすた/\と前《まへ》へ進《すゝ》んで、砂《すな》の上《うへ》に唯一人《たゞひとり》やがて星《ほし》一《ひと》つない下《した》に、果《はて》のない蒼海《あをうみ》の浪《なみ》に、あはれ果敢《はかな》い、弱《よわ》い、力《ちから》のない、身體《からだ》單個《ひとつ》弄《もてあそ》ばれて、刎返《はねかへ》されて居《ゐ》るのだ、と心着《こゝろづ》いて悚然《ぞつ》とした。
時《とき》に大浪《おほなみ》が、一《ひと》あて推寄《おしよ》せたのに足《あし》を打《う》たれて、氣《き》も上《うは》ずつて蹌踉《よろ》けかゝつた。手《て》が、砂地《すなぢ》に引上《ひきあ》げてある難破船《なんぱせん》の、纔《わづ》かに其形《そのかたち》を留《とゞ》めて居《ゐ》る、三十|石《こく》積《づみ》と見覺《みおぼ》えのある、其《そ》の舷《ふなばた》にかゝつて、五寸釘《ごすんくぎ》をヒヤ/\と掴《つか》んで、また身震《みぶるひ》をした。下駄《げた》はさつきから砂地《すなぢ》を驅《か》ける内《うち》に、いつの間《ま》にか脱《ぬ》いでしまつて、跣足《はだし》である。
何故《なぜ》かは知《し》らぬが、此船《このふね》にでも乘《の》つて助《たす》からうと、片手《かたて》を舷《ふなばた》に添《そ》へて、あわたゞしく擦上《ずりあが》らうとする、足《あし》が砂《すな》を離《はな》れて空《くう》にかゝり、胸《むね》が前屈《まへかゞ》みになつて、がつくり俯向《うつむ》いた目《め》に、船底《ふなぞこ》に銀《ぎん》のやうな水《みづ》が溜《たま》つて居《ゐ》るのを見《み》た。
思《おも》はずあツといつて失望《しつばう》した時《とき》、轟々《がう/\》轟《がう》といふ波《なみ》の音《おと》。山《やま》を覆《くつがへ》したやうに大畝《おほうねり》が來《き》たとばかりで、――跣足《はだし》で一文字《いちもんじ》に引返《ひきかへ》したが、吐息《といき》もならず――寺《てら》の門《もん》を入《はひ》ると、其處《そこ》まで隙間《すきま》もなく追縋《おひすが》つた、灰汁《あく》を覆《かへ》したやうな海《うみ》は、自分《じぶん》の背《せなか》から放《はな》れて去《い》つた。
引《ひ》き息《いき》で飛着《とびつ》いた、本堂《ほんだう》の戸《と》を、力《ちから》まかせにがたひしと開《あ》ける、屋根《やね》の上《うへ》で、ガラ/\といふ響《ひゞき》、瓦《かはら》が殘《のこ》らず飛上《とびあが》つて、舞立《まひた》つて、亂合《みだれあ》つて、打破《うちやぶ》れた音《おと》がしたので、はツと思《おも》ふと、目《め》が眩《くら》んで、耳《みゝ》が聞《きこ》えなくなつた。が、うツかりした、疲《つか》れ果《は》てた、倒《たふ》れさうな自分《じぶん》の體《からだ》は、……夢中《むちう》で、色《いろ》の褪《あ》せた、天井《てんじやう》の低《ひく》い、皺《しわ》だらけな蚊帳《かや》の片隅《かたすみ》を掴《つか》んで、暗《くら》くなつた灯《ひ》の影《かげ》に、透《す》かして蚊帳《かや》の裡《うち》を覗《のぞ》いた。
醫學生《いがくせい》は肌脱《はだぬぎ》で、うつむけに寢《ね》て、踏返《ふみかへ》した夜具《やぐ》の上《うへ》へ、兩足《りやうあし》を投懸《なげか》けて眠《ねむ》つて居《ゐ》る。
ト枕《まくら》を並《なら》べ、仰向《あをむけ》になり、胸《むね》の上《うへ》に片手《かたて》を力《ちから》なく、片手《かたて》を投出《なげだ》し、足《あし》をのばして、口《くち》を結《むす》んだ顏《かほ》は、灯《ひ》の片影《かたかげ》になつて、一人《ひとり》すや/\と寢《ね》て居《ゐ》るのを、……一目《ひとめ》見《み》ると、其《それ》は自分《じぶん》であつたので、天窓《あたま》から氷《こほり》を浴《あ》びたやうに筋《すぢ》がしまつた。
ひたと冷《つめた》い汗《あせ》になつて、眼《め》を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みひら》き、殺《ころ》されるのであらうと思《おも》ひながら、すかして蚊帳《かや》の外《そと》を見《み》たが、墓原《はかはら》をさまよつて、亂橋《みだればし》から由井《ゆゐ》ヶ濱《はま》をうろついて死《し》にさうになつて歸《かへ》つて來《き》た自分《じぶん》の姿《すがた》は、立《た》つて、蚊帳《かや》に縋《すが》つては居《ゐ》なかつた。
もののけはひを、夜毎《よごと》の心持《こゝろもち》で考《かんが》へると、まだ三|時《じ》には間《ま》があつたので、最《も》う最《も》うあたまがおもいから、其《その》まゝ默《だま》つて、母上《はゝうへ》の御名《おんな》を念《ねん》じた。――人《ひと》は恁《か》ういふことから氣《き》が違《ちが》ふのであらう。
底本:「鏡花全集 巻四」岩波書店
1941(昭和16)年3月15日第1刷発行
1986(昭和61)年12月3日第3刷発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:鈴木厚司
2003年5月18日作成
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